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音楽におけるパクリ論争は今となっては不毛かもしれない


 音楽においてパクリという言葉は本当にパクっているものより、難癖や野次として用いられる事の方が多いと漠然と思う。確かに似たような音楽はあるといえばある。しかし、そう安易に「ちょっと似てる!パクリだ!」としてしまうのも気が早すぎる。
 おそらく音楽を聴けば聴くほど、安易に「パクリだ!」と言えない事に気付くだろう。俺自身、中高生のとき「あれパクリちゃう?」みたいな事は深い考えもなく言っていたような気がする(都合の悪い記憶はうっすら)。知らなければ知らないほど、安易にそういう事を言えてしまうものだ(当社比ならぬ当者比)。
 まぁでも、それって普通といえば普通のことだろう。誰だってそう。音楽聴き初めだと音楽を捉える解像度も粗いもんだ。馴染の無いジャンルがみんな同じに聴こえるように。で、聴いている内に解像度が高くなっていき、そこでようやく発言に慎重になれる訳だ。そんな私の「パクリ観」。

理論というレール

 音楽理論というものがある。凄く雑に言えば、「こうしたら聴き心地がいいメロディが作れるよ!」という感じのものだ。ウケの良い音楽を作るには必須である。そして理論に頼らず感覚的に作ったキャッチーな曲は大抵理論で回収される。感覚的な理論と言える。
 なぜパクリの話で音楽理論が出てくるかと言えば、音楽理論とはある種、決められたレールと言えるからだ。コード進行に著作権は無い。丸サ進行とか小室進行みたいな文言を目にした事はないだろうか、それである。みんな同じレールに乗れる。
 レールと表現したのはネガティブな捉え方だが、実際コードは使える音を制限する性質がある。そして、コードに合った音でなければ音が外れて聴こえ、大衆ウケしにくいものに仕上がる。敢えて外している!凄い!みたいなのもあるけど、そういう人は四六時中外している音楽に興味は持てなかったりする。まぁ、似たような道を歩もうと思えば似たようなフレーズになってしまう事もあるよね、という話だ。だから似たフレーズを見つけたところでパクリとは言いにくい。
 多分ちょっと理論を調べれば、似たようなフレーズが生まれる可能性は思っていたよりは高いという事に気付く。メロディはそこまでランダムから生み出されるものではない。被らないように避けながら作曲すると、作る事が目的なのか避ける事が目的なのかわからなくなりそうだ。楽器を触れば尚更、指の可動域が枷になる事もある。
 また、過去に聴いた曲の中にあったフレーズがどの曲のものだったか分からないとき、自分が思いついたフレーズだと錯覚する事もありえる。浮かび上がってくるメロディは既製品かもしれない。こういうのって好きな曲より、ぼんやり覚えている曲からうっかりパクってしまう可能性が高いのではないかと思っている。自覚出来ないが故に。

 菊地成孔さんと大谷能生さんの共著では「著作権が適応されるのはリズムではなくメロディ」という当たり前だが示唆に富む事を言っていた。捉えられやすいメロディ部分がその曲の象徴となり、著作権が扱うのはその象徴だ。リズムパターンに著作権が生じたらとんでもない事になるだろう。


個人的なパクリの定義

 パクリの類語にオマージュ、リスペクト、パロディなどが挙げられる。サンプリングという言葉も付け足そう。これらの共通点は模倣しているというところだが、微妙にニュアンスは異なる。
 オマージュとリスペクトはだいたい同じイメージだ(フランス語と英語というだけの話か)。パロディという言葉は三枚目感がある。調べてみると「風刺、皮肉を交えて」と書かれている。敵意なく茶化すイメージ。サンプリングは他所の作品をそのまま素材として使う。異質だ。やっている事を考えればサンプリングが一番エグいが、最近は権利関係をクリーンにしてやっているようだ。ただ聴く側からすれば権利関係をクリーンにしてもしなくても、結局耳に入ってくる音は一緒である事は留意しておきたい。
 では、「オマージュ、リスペクト、パロディ、サンプリング」と「パクリ」の違いは何なのか。個人的にはそこに「悪意」があるかどうか、なのではないかと考えている。
 悪意を感じるかどうかは個人の感覚だ。という事は、結局パクリか否かは個々の主観に委ねられる。定義付けに限界があるような気がするので、明確にパクリであるという線引きは難しい。人によって線引きが違うからこそ、パクリか否かが論争の火種になりやすいのだろう。もちろん言語感覚は人によってまちまちだから、そもそも「パクリは悪意があるかどうか」は明確な定義ではないし、その言葉を使う人の文脈から読み取る事が重要である。ただ、個人的にはパクリという言葉は悪意というニュアンスを含んでいると解釈しているし、その点を強調しても良いんじゃないかと思う。
 好きでないアーティストが模倣的な作品を出せば悪意を感じやすい。つまりパクリ認定しやすい。排他的な人なら特定のアーティストにちょっとした敵意を持っている事はあるだろうし(自覚しているか否かはさておき)、敵意があるが故に悪意を感じようとしてしまう事もある。つまりパクリ認定する方向で考えてしまう。聴く側の悪意と言えるかもしれない。それぐらいの性格の悪さは誰にでもあるだろう。
 逆に好意的に見てるアーティストの場合は似た曲を見つけても「何か理由が…」と立ち止まり考えようとする。悪意は無かった、つまりパクリではないという方向で解釈しようとする。まあ、フラットに向き合う事が難しいのは音楽に限った話ではなく、とても普遍的な話ですが。

パクリ判定はフェアか?

 みのミュージックさんの動画で「Vaundyがオアシスをパクったのではないか」、という話題に触れていた。みのさんはパクリではないと言っていたし、俺も特に悪意を感じなかったのでパクリとは言えない気がした。しかし、それと同時に疑問もあった。そうなると「人気者が有利過ぎるのではないか?」という疑問だ。
 正直Vaundyさんは2曲しか知らないので語るのも恐縮だが、件の作品に関しては目茶苦茶オアシスだ。完全に意識している。しかし、パクリというのはバレバレの事をやるのではない。もっと狡猾なイメージ。それが悪意。しかも自分の音楽が多くの人に聴かれ、尚且つオアシスの音楽が多くの人に聴かれているという状況を十分理解しているはずだ。指摘される事を理解済みで2020年代に90年代のサウンドを再現する意図とは何だろうか、10代くらいの若いリスナーに向けられたものかな、とか思う。まぁ、深入りはいいや。「人気者有利過ぎ説」の話に戻そう。
 では、もしオアシスっぽいサウンドの音楽を件の作品と同じクオリティで無名のアーティストがやったらどうだろう。恐らく相手にされないか下手したら「パクリ」とレッテル貼りを食らうパターンがある(ネガティブ過ぎかもしれないが)。その無名のアーティストの背景など誰も知らぬままアレコレ語りだすだろう。しかし、有名だと「いや、何か理由が」と考える人が出てくる。全くVaundyを知らない俺でも擁護する意見を簡単に思い付く事が出来る。そして、その理由が「有名である」という事を前提に繰り広げられているという点は見落とせない。「人気者のあの人は敢えてやっている」といった感じで。
 ビッグネームだと言葉を選ぶのだ。作品のクオリティじゃなくブランドで扱いが変わる。不平等だが、まぁ仕方ない。なぜなら有名だと活動履歴やパーソナルな部分を知ってもらえるという利点があり、それが解釈に良い影響を与える。音楽がピュアに音楽のみから判断される事はあんまり無い。フェアなパクリ判定って無いんじゃないかと思う。でもそれすら正直どうでもいいと思っている。その理由は後の方に太字で書いておこう。

法的にクリアか否かは曲からはわからない

 音楽だけで全てを語る事が難しいのは、音楽が文化として継がれているものであるからだ。ビートルズのような音楽を今の時代に出しても、ビートルズには無い新要素が認められない限りあまり価値は見出されない。音楽においてパクリと断定するのが難しいのは人気、歴史、社会などを含む背景が存在するからだ。総合的背景。
 先にもちょっと書いたが、権利関係の話は音楽を聴く側にとってはそこまで重要ではない(かと言って軽視する訳でもないが)。もちろん許可を取っていない曲に「なんかヤだなあ」という気持ちになるのはわかる。しかしそうは言っても、聴く側は曲を聴いただけで許可を取っているかどうかの判別はできない。同じ内容の曲に「許可取ってるから良い曲」やら「許可取ってないから悪い曲」みたいな事になったら、音楽の評価をしようというのに音楽自体の存在が薄すぎないか?という事になる。背景を重視しすぎになる。繰り返すが権利関連を軽視する訳ではない。しかし、過剰にやれば業界が酸欠状態になるのは目に見えている。
 betcover!!の「時間」というアルバムを初めて聴いている最中だが、「あいどる」の冒頭が「津軽海峡冬景色」に似ている部分がある。しかし、露骨だし意図的だろうな、というのも含めてパクリだと言う気は起こらない。中高生の時の俺なら言いそうだが、今の俺は言わない。
 サンプリングという存在によって価値観が更新されているんだろう。実際パクリの基準が変わった人は多いのではないだろうか。個人的にはサンプリングという技法が受け入れられた時点でパクリ論争のほとんどは不毛なんじゃないかと思っている。

 余談に入るがRaymond Scottの「Lightworks」、J Dillaの「Lightworks」もどちらも良いと思うし、Queenの「White Queen」とFlying Lotusの「Night Grows pale」も同様だ。どちらも元ネタをガッツリ残している作品だ。権利関係のシロクロは正味知らん。
 パクっていようがいまいがシロであろうがクロであろうが、結局その曲にしかない魅力がなければ繰り返し聴く事はない。替えが効くなら古い方を聴く。そっちがオリジナルだからだ。それすら替えが効くなら更に遡ろう。
 良くない上にパクっている音楽は論じられる前に弾いてしまっている事も多いんじゃなかろうか、とか考えたりもする。


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