音楽好き界隈のギスギス、有識者の批評と余波
細田成嗣氏、「にほんのうた」に指摘
みのミュージックこと、みのさんの「にほんのうた」が発売してどれくらいだっただろうか(1ヶ月やそこら)。旧Twitter(現X)でちょっとした動きがあり、それに呼応するような動きも現れた。「AA 五十年後のアルバート・アイラー」の編集者であり、批評家の細田成嗣さんが「にほんのうた」に疑問を呈したのだ。(以下敬称略)
細田成嗣の書評を見て、自分を恥じた。前回の記事で自分なりの疑問を書いたのだが、やはりプロはレベルが違う。恥ずかしながら自分のはこんなん↓です。
また、前回の記事の中で「浅く広くだから、ひとつひとつの項目で揚げ足を取るのは難しいだろう」と感じていたが、短い文から繊細に汲み取り指摘する様子はなんとも見事な感じであった(この場合は揚げ足と言うか真っ当な指摘)。
そして、細田成嗣の自身の領域での情報の危うさに付いた疑問符は他の領域にも移る。彼の一連のツイートの中でのパンチラインはこれだろう。ギスギスしている。
痛烈であるが、漠然と共有されていた疑問が見事に言い表されていた。ほとんどの懐疑的なだけの人からすれば、決定打を与えるだけの証拠が無いから言えなかった言葉だろう。
みのもスタンスは一貫していた。彼の言葉からは「いかに書くか」という苦悩もあるが、「いかに削るか」という苦悩もあるということが垣間見えて、面白いやり取りだと思って眺めていた。出版した後に、「これも書くべきだ」「あれも書くべきだ」と周り言われるのは分かっていただろうけど、みのにその言葉を最も繰り返したのは彼自身だろう。
健全なやり取りだったと思う。みのにも細田成嗣にも否定的な感情は全く沸かない。一読者としては為になる。
しかし、細田成嗣の指摘は思わぬ余波を生み出した(ぶっちゃけ想定内)。潜在的にみのに批判的だった層を掘り起こしたのだ。
後追い批判
一例として、アマゾンのレビューに「情報(誤りも含む)の羅列」と題されたものがある。内容としては批判的であるが、目に付くのはやたらと括弧()で閉じられている部分があるという点である。
日付から考えれば、これは細田成嗣が「にほんのうた」について触れる前から存在しているレビューである。しかし、細田成嗣の一連のツイートを受けてから加筆された。この文中にやたらとある括弧の部分がそれだ。違和感のあるやたら多い括弧にはそういう意味が隠されている。
しかし、厳密に言えば括弧外にも加筆がある可能性は否定できない。加筆部分に括弧を付けているのは、この人の誠実さかもしれない。何にせよ細田成嗣の指摘に触発された文章であるように思える。「(一次資料に当たらず、批評で述べられていることを事実として記載している等)」と言う部分とかモロである。確かに最もな指摘である。だからこそタイミング的に関係しているように思えてならない。
何故加筆されたと言えるのか、それは覚えていたからだ。「お前何でそんな事覚えてんねん、きっしょ」と言われれば、「た、確かに」と答えるしかない。
覚えていた理由はこのレビューを読んだ時、「私自身が明るいジャンルについての書かれ方が非常におかしかったため」と書きつつ、具体的にそれが何なのかが触れられていなかったからだ(因みに俺が見た時点では、具体例に触れられないままではある)。細田成嗣を見習えば、そこに触れる事によって前向きな議論になるのではないのか。とはいえ、取り敢えず本を出して叩き台にするというやり方が気に食わない人からすれば、思惑通りに動かされている感じがして気乗りしないのかもしれないが。
で、注目して欲しいのは括弧外と括弧内(加筆部分)の攻撃性の差だ。加筆前からチクリと刺すような事は書いてはあるが、加筆部分での攻撃性は一段と増しているように感じるのは俺だけか?
このような反応のきっかけは、有識者を味方に得たように感じたからだと予想する。細田成嗣は全く悪くない、と先に言っておく。というか言語化のレベルが頭一つ抜けているからこそ、何か言いたげな人々を先導してしまうのだろう。
しかし、「叩きたい」が先行し過ぎている人々は自分の考えに確固たるものは無いものの、叩きたい願望は人一倍。だからこそ言語化の上手い有識者に乗っかるのだ。「そう!俺が言いたかったのはそれ!」みたいな感じで。後乗り!
とは言え、言語化されていない漠然とした違和感はちょっとあった。でも他人の褌で相撲を取るのも何だかな〜、と急ぎ気味で自分なりの書評を書いたのだった。
恥ずかしながら「孫引き」という概念もこの流れで知った言葉だ。一つのシーンについても複数の視点から捉えなければ、情報が偏るという事も改めて考えさせられた。また、書物で過去を調べる事の限界、複数の本から当時を立体的に捉える事の難しさもそうだ。それでも一個人としての俺は「にほんのうた」の圧倒的な情報量を前に「すげえ調べたんだろうな〜」と感心するばかりだった。
議論するためのスタートラインに立つ事すら難しいし、これだけ有意義で示唆に富んだ指摘をした人は現時点では細田成嗣だけではないだろうか。勉強になりました。
潜在的アンチが顕在化する条件
話変わって、というかこっちがメイン。個人的には今回のような「潜在的アンチが有識者の登場により顕在化する現象」というのは初めて見た訳では無い。
過去に菊地成孔、大谷能生の「M/D」というマイルス・デイヴィスを研究した著書のアマゾンのレビュー欄にて、似たような現象が起こった。「デューク本郷」を名乗る正体不明の有識者(?)が「M/D」内の一つの事実誤認を指摘し、そこから他のアンチを扇動、「アイツはいい加減な奴だ!」とレッテルを貼る流れを作ったのだ。匿名の有識者であるアンチの元に大勢の人が「役に立った」を押していた。これ↓が扇動先導レビュー(くだらない)。
ここで一つお聞きしたい。もし、気になる本のレビューがやたらと低ければ、少し買うのを見送る事は無いだろうか。そこに精度がなかったとしても(というか、精度が高いかどうかも調べないのが普通かもしれない)。
だからこそ、悪意ある扇動を放置すれば読まれる機会自体が損失してしまうかもしれない。そこで、著者の一人、菊地成孔は大胆にも「扇動する有識者」として機能するデューク本郷に直接公開討論を持ちかける声明を出す。それもアマゾンのレビュー欄で。レビュー欄にある文章の中で最も長いのではないだろうか。↓
その中にある文章が、今回の細田成嗣が「にほんのうた」に触れた件で、俺の脳裏を過ったのだ。
「これは困った事に〜」の「これ」とは、「レビュー欄にて、率先して低い星を付け罵詈雑言を浴びせる行為」に対してである。太字のところ表現は恐ろしく的確じゃないでしょうか。
勘違いしないで欲しいのは、デューク本郷≒細田成嗣、と言いたい訳では断じてない。全く違う。デューク本郷は細田氏とは違い、ちょっと変わった人だったのだ(婉曲)。自称する経歴も違和感があり、触れない方が良さげな人だった。匿名で物申していたという点も、両者を分ける大きな違いだ(というか、それが一番大きいか)。
取り上げたかったのはあくまでも、「潜在的アンチが有識者の登場によって顕在化する現象」である。そして、有識者役として機能する人物がいればその現象は起こり得る。
また、その時、有識者らしき人物が匿名であれば、質は問われにくい。普通なら「匿名だからこそ質を問うべきでは?」と思われるかもしれないが、説得力のある意見があったとしても、それを言った匿名の人間の素性を逐一調べようとする人はあまりいないだろう。一つ誤りを正せば、勢い余って有識者と祭り上げられるのだ(冷静な人はそうでもないだろうが)。匿名の人を調べるのだって簡単じゃないだろう。それでも菊地成孔は調べた。
細かい事は菊地成孔のブログにある。デューク本郷なる人物の不透明な権威を地上に引きずり降ろす様は、神格化されたマイルスの等身大を捉えようとする著書「M/D」と擬えたくなるが、ロマンもクソも無い。でも面白い。そしてやたら長い。
余談だが細田成嗣の「AA 五十年後のアルバート・アイラー」では菊地成孔、大谷能生の御二方も執筆している。俺は読んでませんが(小声)。
知識なくても有識者気分
この一連の現象をわざわざピックアップする事によって何が言いたかったのか。それは、自分の審美眼を活用することの難しさである。
一人の人間が調べる事には限界がある。それでも、面白いコンテンツというものは語りたくなる魔力を秘めている。それでいて、間違えたくないという願望もある。だから、有識者たる他人の意見に乗っかる。音からではなく文字から得た知識である。しかし、それは誰の言葉だ。
個人的な意見なんて間違ってもいいと思っている。多くの人々があれやこれやと意見を言い、その総合が評判となる訳だから、一個人の意見なんてそんなもんだろう。中心になりたがる人々がやたらと拝借した知識でカッコつけたがるが、そこに人間はいない。情報流通業者の受け売りの羅列だ。
音楽のみで音楽を明晰に語れる人は実際は少数だと思うのは気のせいだろうか。今一度、100%は不可能だとしても、自分の感性で向き合わなければな、と考えさせられた。パッチワークの価値観に一貫性は生じない。
自分に対して言うてまっせ。
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