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■ 其の96■ 災害ユートピアの記憶

🔣今から5年半前の夏、西日本を中心に「平成30年7月豪雨災害」が起き、甚大な被害が出ました。 そのときわたしは奇妙な被災をしました。
その日は激しい雨も去り、状況も落ち着いてきたので安心していました。
ですが突然、速報を伝える全国放送のテレビ画面に、今から向かう仕事場周辺が写し出されたのです。空は晴れ渡っているのに、近くを流れる川に濁流が発生し、氾濫し始めたというのです。
当時の様子がウィキペディアに書かれています。

安芸郡府中町では晴天下の10日11時頃、榎川が氾濫し町内の10ヘクタールが浸水、川沿いの幼稚園で園児180人が一時取り残されるなど、緊急の救助活動が行われた。堤防が決壊した形跡はなく、上流にある砂防ダムから水があふれ、川の水量が増え、大雨で上流から流れ着いた流木や土砂が、流れが蛇行する場所や橋げたに滞留して川がせき止められ、水があふれ出したとみられる。

ウィキペディア

当時の映像  ⇩

https://youtu.be/YJqysrvEOZA

🔣一帯に赤茶色の土砂が、どんどん流れ広がっていきました。
山が崩れたわけでも、建物が壊されたわけでもない。しかし道路や空き地や庭先など、流れ込める場所が次々と土砂で埋まっていくのです。
なすすべがない。「ああ、これで終わった」と感じました。

次の日から、住民やボランティアが集まって土砂の撤去作業が始まりました。そこでは知らない者同士でもなんの垣根もなく声を掛けあい、集まった人々の活気で賑わっていました。三丁目の夕日のような、古き良き日本人の繋がりを体験している気がしました。誤解を恐れずに言えば、辛いのにどこか楽しさや高揚感がありました。小さな商店の前を通った時、お店の人が「おつかれさまです」といってペットボトルのお茶をただで配っていました。
わたしが災害ユートピアを実感した経験です。あれから随分時間も経ち、いまは平穏になったから言えるのでしょうが、懐かしい大切な思い出です。



🔣かつて朝日新聞社主催、協和発酵協賛で、
「朝日ヤングセッション」という講演会活動を行なわれていました。
その第八回は、建築家の安藤忠雄さんがゲストでした。
その講演内容を書き起こした本の中から一部紹介します。

 震災後は、三日と置かないで、ずっと被災地を、とくに宝塚、西宮、芦屋、神戸という地域を見て回ったんです。
 高速道路が落ち、ビルが倒壊しているというすさまじい光景のなかで、ふと気づいたことがありました。
 子供たちがとても元気だったということです。
 子供たちも大人に混じって、壊れた建物の解体を手伝ったり、ものを運んだり、老人たちに水を運んであげたりして働いていました。阪神地方は傾斜地が多いので。水を運ぶのも大変なんですが、いやいややっているような子は一人もいない。どの子もみんな、いきいきしていた。
            〈中略〉
 被災という悲しい出来事によって、皮肉なことに、子供たちは自分の意志でものごとができるようになった。そして、自然に自分の自由意志で老人に水を運んだわけです。
 水を持っていってあげると、老人や大人たちは喜んでくれます。「ありがとう」と感謝される。自分の意志でしたことが喜ばれる。これはうれしいですよ。自分の存在がみんなに認められたわけですからね。
 その、自分を認められたうれしさが、被災地の子供たちを元気にさせていたのではないかって、思うんです。

安藤忠雄講演会 「自由に生きる」 平成八年四月三〇日 発行


能登の子どもたちにとって、ただ失うだけではない、未来に向かう、財産になりうる時間をすごしていることを願います。

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