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コ◯リでつくったカフェ

去年の12月から自分たちの手で作り始めたカフェがようやく完成を迎えました。自分たちの手で作るカフェがこんなにも大変なことだなんて、作り始めたときは全然想像できなかったけど、7月15日のグランドオープンを目前にして少しずつでも手を動かしているとオープンの日は必ずやってくるものだと新しい気づきを得られました。

正直に言うとカフェづくりを舐めていました。カフェなんて簡単につくれるだろうと。だけどそれは間違いでした。

雇われだったけど、飲食店で働いたこともあったし、カフェの雰囲気も好きだったから他所のお店に行くことも多々ありました。

ですが、自分たちで手を動かし、デザインからDIY、告知までほとんど手作りでやるお店づくりがこんなにも大変なことだなんてオープン直前だから言いたい。

でもそれ以上に地域の中に生まれた変化や自分たちの充実感、幸せをセルフビルドしている感覚、悩みや葛藤、自分の頭を使い、手を動かさなければ見えない未知の世界に入り込んだ感覚は実際にチャレンジした人しか味わえない感覚でした。

「カフェでどうやって食べていくの?」

カフェづくりを始めて多くの地元の方から心配をいただきました。

しかし、自分たちはカフェだけで生きていこうとは思ってないし、2枚でも3枚でも10枚でも自分の名刺を持って生きたい。そうやって何個も依存先を持つことが今の時代を生きるスタンダードだと思っている自分らにとって食べれるか食べれないかの議論をふっかけてくる世代間ギャップに疑問を持ちながら、一つの問が生まれました。

食べられるか食べられないかの議論が地域を衰退させたのではないか?

そもそも自分たちがカフェづくりをしているのは、街の機能としてカフェが必要だったからです。

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ここ5年くらい西和賀を訪れる多くの友人達から「このロケーションにカフェがあったら素晴らしいのに」何度も言われました。

私もあればいいと思ったし、誰かがやってくれればいいなぁなんて思っていました。しかし、去年森の中で手作りの結婚式を成功させて、「ほしい暮らしは自分たちで作れるんだ」ということを学び、カフェづくりなんてやったこともなかったけど、やってみることにしました。

自分たちが最高のロケーションで飲んでいる最高に美味しいコーヒーをきちんと共有し、共感してもらえるように。共感してもらって自分たちが自分たちの土地に愛着を持ち、それをまた他の人に伝える良い循環が生まれるように。

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半年間カフェづくりをして感じたのは、他者との関係性がこんなにも人生を豊かにさせてくれることへの気づきです。

自分らがカフェづくりをちょびちょびやっていると、近所の人が作業を手伝ってくれたり、アドバイスをくれたり、のれんにはこの棒がいいよと桜の枝を持ってきてくれたり。

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いつもほっとゆだ駅の温泉で一緒になる近所の中学生は、お風呂で一緒になるたびゲームかアニメの話ばかりしていたけど、カフェづくりをはじめてからは下校途中に様子を見ていってくれて、「あれを作ったらどう?」とか「ここをこうしたら?」とか「俺ならあれは作れるよ」とか自分の方から言ってくるようになりました。小さいことかもしれないけど自分はこういうところに希望を感じます。

地域で働くようになってから感じた疑問

高校を卒業して、それから約10年間地元で働いてきて、所得と雇用を地域に作っていくことが持続可能な地域になると教わってきたし、自分もその原則をもとに行動をしてきたつもりだけど、必ずしもそれは持続可能な地域につながらないんでは?というのが私の行動の発端です。

高校の進路指導の時間に高卒と大卒の生涯賃金の違いを見せられ「だから大学に行かなければならない」という先生の話を聞いて、この国の教育のあり方に疑問を持ったけど、自分たちは生まれたときからなんでも揃ってしまった世に生まれ、自分たちの関わる空きが無い閉じた世界で、これが正解な人生と言われて育ってきた。会社に入り決まった給料をもらい、何一つ不足のない暮らしを送ることが正解な人生なのか。そこから逸れたくないために誰も冒険をしない、波乱も困難も無い人生が本当にいい人生なのか。

セルフビルドした結婚式を終えて思った「幸せって自分たちの手で作れるじゃん」という感覚こそ取り戻して行かなければならない身体性のような気がしています。そしてもっと言うと自分たちの暮らしを作る感覚の薄れが地域の衰退、この国の衰退に繋がっているのではないかということです。

カフェは後ろめたさを生み出す装置

この自分の考えアイディアを活かす空きが無いように見える世の中で、地域づくりという分野は答えが無いジャンルだと思っています。全国の地方がそうなのかもしれないけど、地方創生という少し胡散臭い名目で中央から降りてくる交付金を目当てに自分たちもやらなければ損と言わんばかりに、6次産業だコミュニティスペースだ、地域ブランドだとやってきました。しかしどうでしょう。もちろん上手く行っている地域もあると思うけど、滑っている地域も多いのではないでしょうか。滑っている地域に共通しているのは自分の頭で考えるのを放棄したという点だと思います。

でも自分の頭で考えないのは楽です。

自分もコロナで持続化給付金をもらったけど、もらった直後の安心感は人を駄目にするような安心感に近かった。「とりあえずいっか」という感覚。この感覚で今までやってきたのが自分の地元を始めとする地方全般なんじゃないでしょうか。

地域を良くしたいという考えの前に、自分はどう生きたいのか、どういう景色を子孫に見せたいのか、その部分の自分の考えをきちんと持っている人はどれだけいるか。豊かさとはなにか、幸せとはなにか、本気で考え向き合ったことがある人がどれだけいるのか。なんでも全部揃ってしまった世に生まれてしまった世代に「そんなこと考えることがバカバカしいぞ」なんて上の世代は言ってきます。

だけど、セルフビルドのカフェづくりを通して少しその先にある答えに近づいた気がしています。自分の頭で考え手足を動かし自分の暮らしをつくる感覚を取り戻す。たったそれだけで地方そして自分が活性化するのならば、思考停止につながるような交付金なんてもらわないほうがマシだと思います。

こんな事言うと「能力のない人はどうする?」っていうのが聞こえてきそうですが、能力ある人が能力ない人を助けるのが理想な世界ならばそちらに向かえばいいだけな気がします。

我々だってはじめからカフェをつくる能力は無かった。だけど色んな人が助けてくれてなんとかカフェがもう少しでできそうです。助けてくれたのは、きっと自分たちが「ほしい、ほしい」とだけ言ってきて、自分は何一つ動けてなかったことへの“後ろめたさ”な気がしています。

この“後ろめたさ”こそが人々の贈与という行動を刺激する感覚だと身を持って体感しました。

近所の方々から“お祝い”という形でご祝儀をいただいたのは完全に予想外で驚きました。クラウドファンディングのようにリターンも無いのに頂いた“お祝い”は自分たちが“後ろめたさ”を感じ、身が引き締まる思いだった。

カフェづくりを通して、何度も「お金で買ったほうが楽だ」と思いました。自分たちが苦労して作った椅子に似ているやつが近くのホームセンターで3,000円弱で売っていたときは、そちらを買いたくなりました。

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廃タイヤにロープを巻いてで作った椅子の制作経過途中。
一人で4時間、二人で3時間かかった。

ですが、一つ一つ手を動かし、やれることが増えていくと少しだけ世界の成り立ちが見えてくる気がしました。これこそが本当はすっ飛ばしてはいけない手足を動かす価値なんだと。

地元の方は特にですが、「メニューは?」と聞かれることが多いです。こちらとして見てもらいたいのは、自分たちで作ったカウンターや壁、外のデッキなのですが、やはりどうしてもそういう部分に目が行ってしまうことは仕方ないことなのかもしれませんし、その部分だって自分たちは手を抜こうとしているわけではありません。でも、このカフェから私達が伝えたいことが1mmでも伝わったのならこれ以上の幸いはないと思います。

ほしい暮らしは自分たちで作れるということ、そしてそのことが本当の幸いへの一途だということ。

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まもなくグランドオープン。
ここから地域が根開きますように。

zen

追記 タイトルのわけ

カフェづくりにあたってホームセンターコ◯リには多大なるお世話になったわけですが、今回のカフェづくりは補助金・助成金の類(クラウドファウンディングも!)は一切使っていません。我々の貯金と結婚式のご祝儀を使わさせていただきました。我々の恵まれた交友関係という富を少しでもカフェという形で再分配できたのなら世の中はきっと今よりもよくなるはずです。その連鎖が続きますように。




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