見出し画像

月響(げっきょう)24



お兄さんの部屋からいちばん離れたトコに在るミサキの部屋には
さっき感じたみたいな押し潰されそうな雰囲気はないのだけど、
こちらも前に来た時とはだいぶ様子が違っていた。

壁、ベッドまわりの壁にベネチアの観光名所の写真がペタペタと
貼りつけてある。

和室の砂壁に、ベネチアの仮面をつけて仮装した人々の写真が奇妙に
マッチしていた。

ベッドの反対側のサイドボードの上にはナリタ君のラケットと使い込まれた
テニスシューズが置かれていて、その隣には赤いチューリップが三本、
ガラスの一輪ざしにかなり無理矢理押しこまれていた。

チューリップは三本とも、勢いよく花弁を外側に向けてそれぞれ三方向へ
明るい光を放っていた。

よく見ると、花びらの一枚一枚が不思議なくらいつやめいていて、真っ赤な
グロスを塗った唇を想像した。


ラケットは、事故の後こっそり部室から持ち出したらしい。

その時クラスメイトでテニス部の古谷君に見つかってしまったらしいけど、
ミサキの胸に抱かれたラケットを見た古谷君は、

「オレ、今朝それの夢見たんだ。ナリタの形見。先越されちゃった」

と少しおどけて云うと、

「ちょっと待ってて」

と部室の隅のロッカーをごそごそやりだして古いテニスシューズを取り出すと、そこらへんに落ちていた紙袋に大事そうにしまいミサキに差し出した。

「それがそこにあったの、ナリタ本人も忘れてただろうね。
 意外とめんどくさがりがったなァ、アイツは。
 一年ぐらい前からずっとそこに放りこんだままになってたんだよ、その
 シューズ。
 ラケットは誰も捨てないだろうけどコイツは絶対捨てられちまうーって、
 なんか走って来た、オレ」

と云った古谷君の額には確かに汗のすじができていたらしい。



それを聞いて私は、鼻の奥がツンとなる。

ミサキは、

「お茶入れてくるから」

と云って部屋を出て行った。

トンッとふすまを閉める音がしたその瞬間私の頬を涙がつたった。

ナリタ君のラケットは毎日学校で持ち歩いていた見覚えのあるものだった。

昼休みに自主練してるナリタ君をミサキと一緒に屋上から眺めてた
コトとか、毎日当たり前にしてたコトがなくなってしまったということが
本当に悲しいと思った。


その時だった。


部屋が一瞬のうちに水で満たされていて、私は自分が水中に居ることに
気づいた。

水中なのに呼吸は無理なくできていた。

さっきまでと何ひとつ変わらない状態で、ただそこは水の中だった。

カラダを動かしてみよう!まず立ち上がる。そして頭をまわしてみる。

耳にも鼻にも水が入ってきてるのだろうけど特に不快感はなく、カラダが
浮くカンジもない。

それが不思議だったけど、いちばん不思議なのは目を見開いてるのに
痛くも何ともなくて普段よりも澄んでよく見えるコトだった。

まるで涙の成分みたいに目に優しい水なんだなと思った時、私には
この水が何なのか分かって涙が出てくる。

でもその涙は出るはしからまわりの水と溶け合って、私には自分が
声を上げて泣いてるのか大声で笑ってるのかよくわからなくて、それが
おかしくて最後にはなんだか大笑いしていた。

口を開けると水が流れこんでくるけど息苦しくはならず、その水は
やっぱりしょっぱかった。

私は口を閉じ、心の中で「ナリタ君、」と呼び掛けた。

この水はナリタ君の涙なのだ。

ミサキがナリタ君はすごく大きくなっているって云ってたけどそれは
本当だったんだ。

私はすごく嬉しかった。

ナリタ君が亡くなってから私は、ナリタ君への想いが誰とも分かち合う
コトのできないものな気がして、感情を押しこめがちになっていた。

だってそれは、私の手に負えない苦しさだった。

でも今、私の悲しさをおんなじ大きさで判ってくれる存在を知った。

私の悲しさはナリタ君の悲しさだった。

ナリタ君を失った私の悲しさと私を失ったナリタ君の悲しさとはイコールの
右端と左端だった。

ナリタ君の涙に包まれて、私は両腕で自分を抱きしめるみたいに
カラダを抱え込んだ。

私の身体はふるえていた。

ふるえてるなと思った時、今度もまた一瞬で涙の水は一滴も残らず
消えてなくなっていた。



次葉へ





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?