頼んだぞ、沢村。 #1
ガラガラ。
教室に入ると今日も沢村くんは勉強している。
なにやら数学Ⅲというのをやっているらしい。
この高校から進学なんて、よく思いついたものだというくらい、私たちの高校は偏差値が低い。
だから進学を目指すのは、三年四組には沢村くんと私しかいない。
私は文系だから、正直言って沢村くんが毎日何をやっているのかさっぱりわからない。
「おい、沢村ぁ、パン買ってこいよ」
あーあ、また野田くんだ。
また渋々買いに行くんだろうな、と思った。
しかし、今日は訳が違った。
ガタガタ。
「……ドアが開かないよ」
「ああ? なんだテメェ。開かねー訳ねーだろ」
「……本当に開かないんだ。……どういうつもり?」
野田くんが沢村くんを殴る。痛そう。
野田くんはさらに沢村くんの胸ぐらを掴んで、壁に押し付けた。
「ふざけんなテメェ! 俺ぁドアなんて知らねーぞ!」
そう言って野田くんは沢村くんを投げ飛ばし、ドアに手をかける。沢村くんは床に尻餅をついて、口元を押さえている。
ガタガタ。ドアは開かない。
「うわっ、このドア壊れてる」
「え、そっちも? ねぇーなんでー? トイレ行けないじゃん!」
反対側のドアから教室を出ようとしていた友野さんが甲高い声を上げた。
「おい、なんだあれ?」
松尾くんが黒板を指差している。黒板にはいつからあったのかもわからない文章が書かれていた。
x -3=5 をxについて解きなさい。
野田くんが吹き出した。
「はははっ。なんだ? 誰が書いたんだ? あんまり偏差値低いからって舐めんなよ!」
x=8
野田くんがチョークを置くと、黒板には突然別の文章が現れる。音も何もない。
x^2 + 3x -1=0 をxについて解きなさい。
「うわぁっ! なんだこれ! だ、誰が書いたんだ!」
野田くんはチョークを振りかざして教室を見回す。しかし誰も口を開かない。私も同じ。
何が起こったか、誰にも理解できていない。
「しょ、しょうがねえ。ときゃーいいんか」
-3±√(9-4×(-1)
x= ────────────────
2
-3±√13
= ─────────
2
ふっ、と音も無く、また同じように文章が変化する。
「おいおい、何だよ……」
私は息を飲んだ。野田くんにあれは無理だ。
x^3 - x^2 - 4x +4=0 をxについて解きなさい。
「ええと、確か……」
誰も野田くんに近寄らない。彼はクラス一の暴力少年な上に、この状況はあまりに不可解だ。誰も首を突っ込みたくはないのが本音なのだろう。私もだけど。
(x-1)(x+2)^2=0
x=1,-2
「え、ちがっ」
どおんっ。と音がした。
首から先がない。頭は? 見つからない。野田くんの首から飛び出す鮮血。あっという間に教室の天井に届いた生々しい赤が、目の前の景色を染めた。
女子生徒が叫び声をあげる。私も叫ぶ。
野田くんの周りをみんなが避ける。生徒たちは混乱し、机をなぎ倒しながら、我先にとドアに集まる。
しかしドアは開かない。
「なんで? なんでよ!」
「間違えたからだ!」
その声に教室は静まり返る。あれ? こんな声だったのか。
「野田は間違えた。わかるのはそれだけだ」
そう言って、一人机に座ったままだった沢村くんが静かに立ち上がる。
⇄ (x-1)(x+2)(x-2)=0
∴ x=1,2,-2
ふっ、とまた黒板が更新される。目の前で何が起きているの? 次は何? 怖い。
視界がだんだんと暗くなって足から力が抜ける。
「お、おいっ! 大丈夫か、皆川!」
誰かが私の肩を揺すっている。何も聞こえない。いや、だんだん聞こえて来た。これは朝長くん。
「う……、うん。大丈夫。ただの貧血」
私は朝長くんに支えられて立ちあがる。
黒板を見ると、正面で沢村くんが沈黙している。表情は読み取れない。あ、文章は!?
3問正解しました。次の出題は8:50です。
それまでの間、扉が開きます。時間は厳守してください。
もし時間まで教室に入らない生徒がいたら、殺します。
それ以外の詳しいルールは、4問目の直前にお知らせします。
「あ、空いてるぞ……」
その声を合図に、生徒たちは押し合いへしあい、一斉に教室を出て行く。廊下は人の海と化した。
ふと、悲鳴が聞こえた。となりのクラスからだ。同じことが起こっている?
私もふらふらと、教室を出ようとする。
「まてっ」
朝長くんが私の腕を掴んだ。
「え?」
「今行くのは……何か危険だ。8:50まであと3分しかない。トイレ大丈夫か?」
私は頷く。危険? やはりこれは現実? 朝長くんはもう現状を飲み込んだのだろうか。
沢村くんは教卓に寄りかかっている。もしや、笑っている?
気づくと教室の床は、野田くんの血で真っ赤に染まっている。机や椅子はなぎ倒されて、惨憺たる光景だ。うっ、吐き気がする。
腕時計を見る。8:49。時刻まであと20秒。今教室には?
私たちを含めて十数人。みんな逃げようとしたのだろうか。残った人たちはぶるぶると震えている。ゴクリと生唾を飲み込む。
残り8、7、6、5。
「あ……」
何かを朝長くんに言おうとした。でも、すぐ隣にいる彼には聞こえないほど小さな声しか出なかった。私は今、怯えている。
3、2 、1。
どおん、どおん、どおん。
廊下からけたたましく音が響いてくる。ああ、これは。
どうやら現実らしい。
教室にいた誰かが叫ぶ。廊下は?
振り返ると窓ガラスはカーテンを引いたように、真っ赤に染まっている。見たくない。何人死んだ?
「沢村……」
朝長くんが沢村くんを見ている。その表情は彼らしくなく、不安がにじみ出ている。私はその時初めて、自分がずっと朝長くんの腕にしがみついていたことに気がついた。
そっと朝長くんを離れる。
「よくわからないが、沢村。頼んだぞ」
沢村くんの肩が微かに動いたように見えた。
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