夏が終わった朝に
久しぶりに早朝、車を走らせることになった。空模様は曇天。爽快な朝とはいかなかったが、空気が思いの外ひんやりとしていることに驚いた。
肩を上げて大きく外気を吸い込む。
ようやく夏が終わったのだ。
そうだ。終わる。
永久に終わらないんじゃないかと思うような憂鬱なあの日々でさえ、いつの日かこんな風にあっけなく終わるのだ。
エンジンをかけると、10年落ちの老体は辟易しながらアイドリングを始めた。オイルがゆっくりと一巡りしたらこっちもゆっくりとアクセルを開ける。
イトが助手席で朝マックに行こうとはしゃいでいる。俺達は南に舵を切ってマクドナルドに向かう。
中学校が始まって順調に登校していたイトだったが、夏休み前から徐々に活気を失い、気付けば順等に不登校生活に落ち着いていった。
想定はしていたが、思いがけずうまくいった中学校生活のスタートに舞い上がった俺達家族の落胆は、決して小さなものではなかった。何度かのカウンセリングや面談を重ね原因をしらみ潰しにしようとしたが、問題のすべては学校で解決できないという現実を思い知らされるばかりだった。
毎日イトに嫌がらせをしていた女の子を担任の先生が呼び出して、3人で話し合いをした時の事をイトはこう言った。
「先生に言われてあの子、私にごめんなさいって言ったんだけどね、その時も目を合わせなかったし手足なんかプラプラさせてたの。彼女は本気で謝る気なんかないって、最初から解ってたけどね。でもいいの。先生は頑張ってくれたけど、どうせ学校ってここまでしか出来ないもんね」
絶望を恐れて、手の届かない葡萄は酸っぱいのだと言い聞かせるにはあまりに早い年齢じゃあないか。うまく説明出来ないけど、違うんだよ。イト。そうじゃない。
「俺だって先生だってイトが思うよりもう少しやれるし、イトだってまだなにかやれるさ。……大丈夫だよ」
ああ、あの時の俺の「大丈夫」にもっと大きな根拠のようなものがあったなら、もう少しはマシな「いま」に彼女を導けていたのだろうか?ハンドルを握る手がユラユラと歪んで、ポツリと嫌な記憶が胸に込み上げる。
夏休み明け。イトの学校の上級生が死んだ。
中学3年生。まだまだ子供だ。
緊急保護者会は開かれたが、3年生の保護者達と別に招集された下級生の保護者達は、何が起きたのかさえ誰もわからず「生徒達の心のケアに努めてください」とだけ伝えられたそうだ。
けれど、後日生徒に配られた一枚のプリントが、ただならぬ事態である事を鮮明に知らしめた。そのプリントはたった一行のアンケートだった。
「〇〇さんについて、何か知っていることはありますか?」
つまり、そういうことだ。事故死や病死ではない、何がしかの死がまだ若い彼女に訪れたのだ。それは憶測かもしれなかったが、事実を知らされない以上生徒やその保護者達はそれらの憶測を受け止める他無かった。
「キリトくんのお姉ちゃん、学童で何度か会った事あるんだけどね、大人しいけど正義感が強くて、優しいお姉ちゃんだったんだよ」
俺はそれを聞いて、言葉にならないような恐怖を覚えた。到底理由などわかる術もないが、そんな子が、イトも共存するこの「世界」に絶望してしまった事が怖いのだ。学校には担任の先生の他にスクールカウンセラーの先生もいた。周りには沢山の大人も級友もいただろう。一番近くで必死に支えようと奮闘したはずのご家族の苦悩たるや、察するに余りあるばかりだ。
幾重もの手をすり抜け、とうとう彼女は手の届かない処へ。
ここではない何処かを求めて。
たったひとりで。
「月見マフィンがいいかなぁ。えいたはー?」
イトの声でハッとして我に返る。イトはニコニコしながらメニューを指差した。俺は慌ててハンドルを握りなおす。
そうだ。恐れてばかりはいられないのだ。イトの闘いはまだまだ続いているじゃないか。
無論彼女の闘いは彼女のものだから、俺はそのリングに立ってやる事は出来ない。だけど、彼女が倒れそうな時、そのセコンドに俺はいたいのだ。タオルを投げるタイミングを間違えないように、彼女の一挙手一投足を見届ける。どんなに辛い試合でも、どんなに苦しい闘いでも、彼女が、俺達が、諦めさえしなければいつかは終わる。
永く憂鬱な夏が突然過去になった、今日の日の朝のように。
だから、大丈夫さ。
なぁ、イト。
(トップ画:みんなのフォトギャラリーより)