自分の文体のルーツはコラムニスト・えのきどいちろう氏からきている。


 私の話を読みにわざわざ足を運んでくれる人の中で、この「えのきどいちろう」氏を知ってる人は果たしてどれほど居るのだろうか。
例えば車の運転中にラジオを流す習慣のある人なら、彼の番組を聴取した事もあるかもしれない。えのきど氏は文化放送とは長い付き合いでパーソナリティを務める番組を持っている。
あるいは、古くから野球チーム・日本ハムファイターズのファンをやっていればご存知かもしれない。彼は「日本ハムファイターズ」がまだ「日本ハムファイターズ」というチーム名でなかったところを「日本ハムファイターズ」という名前に改められたその年からのファンであると言われているらしい。

 そんなえのきど氏を、じゃあ何故免許も持ってないし野球どころかスポーツ全般そんなに興味が無い、しがないゲームオタクが知っているのかと言えば、そう答えはひとつ。

ゲームである。ゲーム雑誌なんである。この「月間Vジャンプ」にてえのきど氏が連載なさっている「吾輩はゲームである。」というコラムがある。


このコラムが今の私の文章の書き方というかスタイルに大きな影響を与えたんだなと、物書きの端くれとして色々考えたり見渡したりできるようになってきた今、ようやく己の源流というものに辿りつけたような心地を得たので、忘れないように書き残しておきたくなったのだった。


 Vジャンプを買うようになったのは、月約500円の出費を惜しまずにいられるだけのお年玉と月のお小遣いを得られるようになったくらいの年頃からだった。ランドセルは背負っていた。
かのスクウェアの名作「クロノ・トリガー」の独占情報が載っていた頃から、覚えている限りだと「ファイナルファンタジー8」の話をしていた頃までは購読していたはずだ。既読のVジャンプを自分の学習机の椅子を納めるスペースに積んで詰め込み、長らく処分できなかったくらいこよなく愛していた。
 そんな頃から自分は【本を読む・文字を読む】行為は好きな方で、Vジャンプに載っていた当時の漫画「スライム冒険記」「チョコチョコボンボン」は勿論毎月楽しみに読んでいたし、それ以外にも読める活字はとりあえず隅々まで読み込んで雑誌購入に費やしたお小遣いのもとを取るかのように「Vジャンプ」という1冊の本をしゃぶり尽していた。
買う気は全く無いゲームの発売前情報とか販促として載ってる玩具の宣伝キャッチコピーとかとりあえず文字であれば目を通し、そうなれば自然と「吾輩はゲームである。」も飛ばすこと無く、その中身を読み取っていった。何なら1ページほぼ丸っと文字が詰まっているこのページは干支1周分にも満たない年頃の自分にとっては概念的ご馳走でさえあったように思う。


 「吾輩はゲームである。」の中で、いまだによく覚えている文章がある。

そうしたら妻が盗ったのである。
泥棒である。ちっくしょー。

泥棒とは穏やかでない話だ。流れとしてはVジャンプ編集部からとあるゲームとそのゲームを遊ぶための機器までセットになって自宅に届いた…というくだりが前段にあるわけだが、それをえのきど氏が遊ぶ前に、えのきど氏の奥様が持って行ってしまったわけである。
なにせその中身というのが初代プレイステーション時代に一世を風靡した「どこでもいっしょ」及び「ポケットステーション」だったのでそうなってしまったわけである。あれは本当に、とりわけゲームができる女性を軒並み虜にしたカワイイゲームだったので奥様が横からかっさらってまで遊びたがったのもまぁ、無理からぬ事だ。

 いや名作ゲームの話はいい。ともかくこの、”ちっくしょー。”という部分である。この”ちっくしょー。”が、自分の言語の深いところに刺さって根を張って今日まで続き、そしてこれからも刺さり続けるものになっているのだ。
 ”ちっくしょー。”というのは、感情を示す。感情的な言葉である。
こういう言葉というのは、小学生が読んだり書いたりする場合には鍵括弧をつけて【台詞】として扱うのが一般的であるだろうと思う。
小学生の作文で上に引用したような書き方をしたら多分、
「ここは『ちっくしょーと思いました。』と書くんだよ」
と直されるだろう。もう小学生を卒業して久しいが過ぎるほど久しいので実際どうかは解らないが、ここはもう完全に想像で言っているしそういう仮定で話を進めるのでご容赦願いたい。
 この【コラム】という存在の、文体の自由さ・懐の深さである。自分の思う所を書いていいし、時には率直な感情を込めたっていい。【新聞記事】でも【小説】でも【作文】でも鍵括弧をつけて台詞と扱ってやらない事を【コラム】はやってもよい。いわゆる地の文にあたる箇所に”ちっくしょー。”って書いていいんである。
その発想を当時の時点で『そういう事なんだ!すごい!』とわかりやすく衝撃を受けて感動したわけではない。その時はあくまで無意識にさくっと自分の片隅に植わり、ここ最近になってやっとその植わっていたのがわさわさ茂っているのを感じて『なるほどそうか』と、なったわけである。
自分が書けるもの、及び書きたいものというのは【コラム】的な物なんだな、というわけだ。


 えのきど氏から学んだのはコラムというものの形の良さだけではない。【読者におもねることの無い、のびのびと、自由に書く文章の面白さ】というのも、「吾輩はゲームである。」にはふんだんに含まれている。
 このコラムの記念すべき1回目の、最初の1行からしてこうだ。

妻がとうとう怒り出したのである。

これは「吾輩はゲームである。」単行本にてえのきど氏本人が述べているが、わざとである。意図してこの書き出しにしたんである。
曰く、”若い読者ばかりのVジャンプの中で、「妻」で始まる記事はまずないだろう”と。
それはそうである。ゲーム雑誌の購読層として、10代前半の子供は「Vジャンプ」、以降は「ファミ通」、みたいな風潮が当時あったような覚えがある。
理由としてはやはりかかる値段だ。「Vジャンプ」は月刊で「ファミ通」は週刊だったので当時の小学生・中学生のお小遣い事情では週刊誌というのは手を出しにくいものだったのだ。
 そんな感じだったので確かに『妻』という言葉は「Vジャンプ」の読者層からしたらピンとくるものではない。でも、敢えてやる。
そういう、解った上で敢えて「これがここのメインストリームだよね」からハズして思うままに。書きたい事を書く。そこからふわっと出てくる『自由を良い感じに楽しんでいる雰囲気』とでも言うのだろうか、そういう所が読んでて好きだったような気がする。
 ゲーム雑誌というのは極端な事を言えば、『最新ゲームの宣伝・販売促進』のためのものだ。だからゲームの記事の多くはその宣伝したいゲームのシステムがどうとかグラフィックがどうとか、こういうキャラクターが出るよとかゲーム画面はこんな感じだよとか、要は【このゲームはこうだよ】という説明が主であるわけだ。
 そんな記事達の中にあって、「吾輩はゲームである。」は時に酉の市の熊手の話をし、時に青山ブックセンターの話をし、時にはえのきど氏ご自身の、原稿執筆のお仕事の原稿料の話までつまびらかにコラムに書き記して1回分が終わる事さえあった。
それぐらいの自由さでも、許されることってあるっちゃある。
それぐらいの自由さから、出てくる面白さがある。
 ゲームそのものの話から枝葉として伸びてはみ出る、そんなその人のエピソードトークが面白がられ、評価される風向きも今日のゲーム界隈では珍しいものではない。この時代の流れにあって、この『自由さ』の面白さはゲーム愛のひとつの解だし、ゲームの事を書くにあたってのひとつの武器だ。
これが理解できるのはひとえにえのきど氏の「吾輩はゲームである。」を知っていたからである。
氏はあるいは、そういう方向でのゲームトークのパイオニアなのかもしれない。いや本当に。


 改めて文章にして、えのきどいちろう氏の魅力を再確認できたような気がしたので良かったです。ゲームを書く人はよければ1度、この「吾輩はゲームである。」を読んでみて欲しいなあと思うのだ。
読んで「こういうのもあるのか」と分かった上で、それでもストイックにゲームそのものを深掘りして書くのか、えのきど氏のような書き方をしてみるのか。向き合って考えたら出てくる物がある人が、私の他にもきっと居る。
そんな事もあるんじゃないかなという期待を込めて、推させていただく次第である。

えっサポートしていただけるんですか?ほんとぉ?いいの? いただいたサポートはものを書くための燃料として何かしらの物体になります。多分。