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えいしょ同人・短歌投稿企画 「詠所(えいしょ)」評②

本日もよろしくお願いします。(↑前回分です。)

1. 

魔が差してHEY!してもいい? 長距離走選手を追いかける露出魔 (粕田熱湯)

平出・評

ダメだよ。いいわけないだろ犯罪だぞ。 と、真っ向からとりあえず言い返せるしそれ以降いくら考えたってその意見は変わらない。
この歌のおもしろい(笑えるという意味で)ポイントは非常にわかりやすくて、(1)ダメに決まってるのに一応尋ねてくるのなんなんだ、(2)よりによって狙うの長距離走選手なのかよ、(3)露出のあれ「HEY!」って表現するなよ、(4)それで伝わってきてるの腹立つな、と、多い。 (5)多いわ。
それらの要素を踏まえたうえで、この歌は【何】なんだよ、と笑えてくる。この「露出魔」のことを、短歌、で描く意味はなんなんだろう。それについて、やはりいくら考えても僕にはわからない。意味なんかきっとなくて、でもこれを描く快感のようななにか、があったんじゃないかと想像する。それはある意味、露出魔が露出することの意味のなさ、快感、ともリンクするのかもしれない。(露出魔の気持ち、知らんけど)

2.

優しい人になりたくて金曜日明朝体を投げつけたまま (花房香枝)

のつ・評

イメージの取り出し方が悩ましい一首だ。人に優しくすることは行為としては簡単でも、優しい人になるのは難しいのかもしれない。〈優しい人〉であるためには、根っからの優しさを持ち合わせていないといけないから。だから一首でうたわれる願望を持つ人は、それなりに優しさというものへの葛藤があって、自分が理想の優しい人からかけはなれている苦しみがあるのだろう。
以上を歌の外部から持ってきて読んだが、それでも〈金曜日明朝体を投げつけたまま〉という表現の方向性を定めることは難しい。「投げつける」が思うようにならない気持ちの発露だとして、「明朝体を投げつける」は実際の行為か比喩か。明朝体はフォーマルでクールなイメージがあるから、杓子定規なことの示唆かもしれない。〈金曜日〉が一週間という時間の幅を感じさせつつ、〈まま〉によって放り出された情景は、主体のどこか諦めを感じる気分の表れのようにも思った。

3.

トリミングの外側はもう大惨事なのにしずかできれいな写真 (岬コーエン)

堂那・評

写真は簡単に嘘をつく。あるいは、写真を使えば簡単に嘘をつける。本当はどたばたでぐちゃぐちゃなのだが、トリミングしてしまえば見せる範囲を限定できるし、それによって見る者の印象を大きく操作できてしまう。誰もが写真を撮ってアップロードしている現在、こうした編集は日常茶飯事として行われている。
情景はあるあるとも言えるが、書き表し方が面白い。「大惨事」「なのに」が三句目と四句目にまたがっている。上の句だけで「~大惨事」というインパクトのある体言止めが成立し、上下の切れ目で逆接が挿入される。ここであからさまに大きな転換が行われて下の句へつながってゆく。
句の切れ目、とりわけ三句目と四句目の切れ目には意識ないし呼吸の切れ目が重なりやすい。上下の分かれ目であることからもそれは明らかだろう。動的な上の句と静的な下の句を衝突させるために逆接で句をまたぐ編集がテクニカルだった。

有村・評

「大惨事」と表現するに足る現場を写した写真。主体はその「写真」が撮られた現場にいたのでしょうか(撮影した本人かもしれませんが)。どのように大惨事だったのかを知っているけれど、それはトリミングによって「しずかできれいな写真」となってしまった。
明確に嘘をついたわけではないけれど、誰かの意図によってトリミングされた事柄。その瞬間の記憶はやがて忘れ去られたり、その事実を知らない人たちによって写真が見られるということもあるでしょう。どこか歌を詠むという行為にも通じているようにも思われました。
後に残される記憶とはそのようなものかもしれません。しずかできれいで、どこかさみしい。

4.

また上手くいかなかったよ散らかったひかりを拭う冷たい窓辺 (椋鳥)

坂中・評

上の句から下の句への移り変わりがなめらかな歌である。「うまくいかなかった」というネガティブな心情と、「散らかった」「冷たい」といったこれもまたマイナスなイメージを持ちうる言葉の取り合わせがごく自然だからかもしれない。だからこそ、何となくすんなり読めそうな歌であるが、「散らかったひかりを拭う」という表現が面白い。散らかるという言葉は整頓されていない状態を指す動詞だが、そもそもひかりは整頓されるものだろうか。また拭えるものなのだろうか。この「ちらかったひかりを拭う」という描写は、実際にひかりを拭ったというよりは、主体の心の動きとリンクしている表現の重なりとしても読める。そうすると重層的に、ベースにある感情のようなものがより浮かんでくる気がする。

5.

もう記号のような写真まよなかに作ったふたりのピザだとしても (今村亜衣莉)

御殿山・評

「記号」と「意味」との関係を考えたくなる一首だ。被写体の記録という観点から、写真は記号だと言える。それをあえて「記号のような」と書くことで、本来この写真を見れば、写真に関する思い出などの「意味」が当然に想起されていたのが、断絶しはじめ、「記号」だけになってきていることを示しているようである。
真夜中に二人でピザを作るという行為は、一からのピザ作りにせよ、ゲームや絵画的なピザ作りにせよ、真夜中、食事に似つかわしくない時間帯というだけで、詩情すなわち意味に溢れている。だから、主体も結句で「だとしても」と、「記号のような写真」になってしまったことに特別心が動いているのではないか。そこに私は、決して小さくはない関係性の風化を読んだ。

中本・評

写真撮影は、すぐれた芸術表現を必ずしも目指していない。写真を撮ったときの思い出や、写真にうつした物への思いを、あとから振り返ってまたよみがえらせる。
真夜中にピザを作ったとして、見栄えや味は料理人の作るピザには及ばないだろう。それでも、二人で作った「ふたりのピザ」だから、写真に残す意味がある。元は単なる素人のピザ、元は単なる記録の写真が、持ち主によって心情を吹き込まれる。
裏を返せば、心情が抜け落ちれば、そこにあるのは大したことのないピザの写真だ。別れの後であっても、過去の心情にさらなる悲しみを加えて、写真は生気を保ちうる。しかし、それさえも消え失せるときが来たのだ。何なのかは憶えている。真夜中なのも憶えている。どうだったかは思い起こすことができない。

6.

注射針を縫い針に替えスタッフに手作りの布マスクを送る (菊池洋勝)

岩田・評

もう少しヒントが欲しい歌だった。まず、主体がどのような立場なのかが分からない。普段注射針を扱かう人なのは分かるので、医療の関係者か。そしてスタッフという言い方から、主体はそのスタッフの一員ではないことが推測できる。医師の方だろうか。確定はできない。そして、「AをBに持ち替える」と言うとき、Aを辞める、もしくはいったん休止するというニュアンスが出る。このニュアンスが正しいのかもわからない。仕事を辞められた、もしくは休業されているのだろうか。このように少し分かりにくさが残るものの、「注射針を縫い針に替え」というのは面白いし、時事的なことを詠んだ歌であることも十分に伝わる。いい歌だと思う。

明日につづきます。よろしくお願いします。

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