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えいしょ同人・短歌投稿企画 「詠所(えいしょ)」評⑤

残り2日となりました。本日もよろしくお願いします。

1.

わたしにも嬉し泣きの回路があると知らされている阪急のシート (真野いずみ)

平出・評

それ、を「回路」って言える把握の仕方と、「嬉し泣き」をしているのであろう今の状態とが、印象としてはマッチしない、けど そう なんだよな、と思った。
感情から生理現象が発生するときに、たぶん脳内にあるはずの経路のことを「回路」と表現することはままあるし、それ自体は決しておかしなことではない。しかし、「嬉し泣き」を今まさにしているそのときにその「回路がある」ことを認識する、ことには奇妙さを感じる。「回路」を把握することの冷静さのイメージと「嬉し泣き」の感極まっているイメージが、マッチしない。でも、そのマッチしなさが、つまり、物語的テンプレートから脱却していることが、この歌の生な息遣いになっているのではないかと思う。
そのシーンが「阪急のシート」で訪れたということから、歌の背後のストーリーを仄めかす。電車で泣いてる人には、物語がある。それを僕が知ることは、この歌を読んでいる今と同じく、できないけれど。

2.

まじやみと よんであわてて見返せば
宮島に行く船の名でした 
(あにまろ)

坂中・評

 上句でまず心が引っ張られる歌である。「まじやみと」のあとのスペースが効いていて、このスペースによって「まじやみと」という不思議な言葉がぽわんと浮き出てくる印象がある。この一瞬の間が読者と主体の思考の時間をぐっと結びつける力をもたらしているとも思える。歌意としては、宮島行きの船の側面に右から書かれた「宮島」を逆に読んでしまい、「あわてて見返」したという素直な読みでよいだろう。しかしなぜ「あわてて見返」したのだろうか。理由には触れられていない。ただ、ひらがなで書かれた「まじやみ」からはいろいろな言葉を連想しうる。なんだか呪術めいた言葉のようにも思えてしまい、その想像の広がりが楽しい歌だった。

堂那・評

そのとき気にしているものが見えてしまうことはある。なにか気に病むことがあったのかもしれないし、病む病まないの話を日常的にしているのかもしれない。全体的にあまり暗い感じは受けなくて、むしろうっかり読み間違えたコミカルな一幕に見える。
宮島へはフェリーに乗って移動する。宮島口の港に立ってフェリーを見ているのかと思ったが、これから乗り込む船の名を「宮島に行く船の名」と捉えるのはよそよそしい。とはいえ、それではなぜ港にいるのかという問題を考え始めるのは不毛だ。宮島へ渡ろうとした際の気付きから出発して、一首に詰め込んだあまりの奇妙な距離感なのかもしれない。
「まじやみ」という言葉が言葉として成立したのはいつからだろう。心の状態を表す言葉としては闇も病みも比較的新しい流行語ではないだろうか。これまでにも「まじやみ」を見た人は無数にいるだろうが、時代の変化がそれをコミカルな一首に作り替えた。

3.

詞書:風邪のとき

全身がひとつの大きな心臓になってしまってよく眠れない (鳳凰)

御殿山・評

メタ的な感想になるが、一首投稿型の企画に詞書付きで投稿することにまず敬服した(今回、この一首しかない)。そして、この詞書があって本当に良かったと思う。非常に「何が書いてあるか」だけは分かりやすい歌だが、ではそれが意図しているものを読もうにも悩む。その指標として、「風邪のとき」がしっかりと立っている。
上句の、身体全体を心臓に感じてしまう意識が、風邪のときの鼓動を思えばわかる気がする。決して大げさではない。ただ、この詞書があると、途端に「よく眠れない」が当たり前になりすぎる、が、それを、心臓の比喩の結果として因果関係で結ぶことによって、風邪のしんどさの説明としてくるのだ。医学的にどうかはともかく、合っている気がする。妙な説得力がある。

4.

みそひとの遠き旅路に恋をした来世もきっと字余りだけど (高宮)

有村・評

「みそひとの遠き旅路」とは短歌のことでしょうか。一見簡単なようでなかなかたどりつけず、果てのない感じを「遠き旅路」と喩えられたのだと読みました。主体は、そのまま今生で死ぬまで短歌を詠み続けるだけでなく「来世」でも詠むだろうと思っているのかもしれません。結構な入れ込み具合です。
結句の「字余りだけど」はよくわかりませんが、「来世も」なので、今も「字余り」という思い(?)を抱いているのでしょうか。

5.

新雪のように磨けよ厨房に青い眼をした見習いがくる (深影コトハ)

岩田・評

「新雪のように磨けよ」は誰に向けた言葉だろう。評者は、「青い眼をした見習い」に向けた言葉だと読んだ。何を磨くのだろう。皿でもいいし、シンクでもいい。何であってもこの歌の良さは損なわれない。そして、見習いの「青い眼」と、「新雪」は美しく響き合っている。思えば、新雪も新人も来訪者である。新雪のように磨くとは面白い比喩だ。そしてこの主体の立場である。レストランか何かの厨房で働いている人物だろう。それは、「くる」という言葉によって表現されている。ここが「きた」であったらと考えると、格段に「くる」の方が良い。「くる」の一語で主体を絶妙に表現できていると思う。

中本・評

包丁だろうか、流し台だろうか、いずれにせよ、「新雪のように磨けよ」とは厳しい要求だ。ただ頑張ればいいというわけではないだろう。新雪は人が踏み入れば新雪でなくなる。繊細に磨かなければならないのだ。
ところで、青い瞳を持つのは色素が薄い人種だ。新雪の白、厨房の銀、見習いの青い瞳、この短歌を特徴づけているのは寒色の印象である。この統一性はひとつの錯覚をもたらす。真新しい雪のような清新さは、見習いに期待する姿ではないか。現時点での青い瞳をさらに磨いて、「新雪」は実現するのだ。

6.

しらはまの松坂桃李かぜかよふ木末のやうに声をこぼして (山下翔)

 木末 に こぬれ のルビ

のつ・評

映画のワンシーンを描いた一首だと思われる。〈木末〉は「樹木の先、こずえ」の意味。光景としては、白い砂浜にいる俳優の松坂桃李が、思わず何らかの声をあげたのだろう。そのときの声に、梢がそよぐさまを見出している。風によって枝が揺れたときの音の感覚が〈こぼす〉という表現につながっていく。韻律も「コ」の頭韻やK音などまとまりを感じる。
面白いのは、枝の揺れという視覚的に提示された比喩と声という聴覚的な感覚が結びついていること。もちろん風が吹けば音もするが、ここでは〈木末〉そのものの存在感を強く感じる。それは〈松坂桃李〉という固有名が「松」「桃」「李」と木へんの漢字で成り立つために、同じ木である「木末」が強調されることによるところは大きいだろう。なお〈しらはま〉のかな表記は、実在する地名との差異化を狙ったものだと思った。この一首が何か実在の映像を下敷きしたなら、それが何か気になってしまう読者の心がある。

明日に続きます。よろしくお願いします。

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