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えいしょ同人・短歌投稿企画 「詠所(えいしょ)」評①


それでは始めていきます。よろしくお願いします。

1.

春告げる宅配便が風に揺れひらひらと舞い地面に落ちる (天色凪) 

御殿山・評

「宅配便」の語から通常連想する大きさと重さ、が、この歌に不思議な読み味を与えてくれている。宅配便は普通、貨物として扱われるように、厚く、重量のあるものを想定するだろう。「風に揺れ」は理解できるが、「ひらひらと舞い地面に落ちる」は意外である。ここで描かれるある種の軽さは、非常に郵便的なのである。
その違和感は、歌の「宅配便」が不在連絡票を指しているのかとも思わせてくる。しかし、歌の景のような軽さを持つ宅配便だってありえる。この特殊性が、宅配便がなんなのかを想像する余地を広げる。また、初句に示されるように、この宅配便は主体に春を告げるもの。吉兆めいたそれの動きを丁寧に観測・描写する行為自体が、主体の思い入れだろうとも感じた。

2.

ダイエット器具がふるえるヨドバシの駅前広場ゆっくり通る (郡司和斗)

岩田・評

不思議な歌だ。「ダイエット器具がふるえる」とはどういう事だろうか。二通りの読み筋があるように思う。一つ目は、電動でブルブル震えて脂肪を落とす、といった電子機器がある。そういうものが実際に震えているパターン。もう一つは、震えているように見えてしまったパターンだ。後者で読みたい。ダイエット器具が「震えている」ように見える感情とは、何だろう。恐怖や、焦りのようなものだろうか。そしてその駅前広場を「ゆっくり通る」。評者なら怖くて足早に通り過ぎてしまいそうなものだが、この歌の主体はそうではない。当然の事のように、ゆっくりと通っていく。このように、不思議な感じを残した点は面白い。しかし、最後まで読みを確定させられず、そこに多少のストレスを感じてしまった。

のつ・評

この歌の発見は〈ダイエット器具がふるえる〉ものであるという気づきだと思う。実際にはもっといろんなダイエット器具があるのは承知の上で、ダイエット器具のなかには機械の振動によって痩身効果をうたうものがある。それを簡潔に表現するのが「ふるえるダイエット器具」である。それが〈ヨドバシ〉こと駅前のヨドバシカメラ(家電量販店)の店舗入り口付近にあって、さらに入り口は駅前の広場に面している。その広場をダイエット器具を見ながらゆっくり通る主体、という流れに沿って一連が描かれる。
一首の中では語の圧縮が起こっていて、先述した光景を見慣れていない場合、修飾関係に戸惑いが起きるかもしれない。
また、4句目までは状況の描写であるために、主体の動作を示す〈ゆっくり〉と言う語が浮いてみえるが、〈ゆっくり〉した速度まで落としたからこそ、ダイエット器具への着目が働いたようにも思われた。

3.

三月の野に陽光の陰るとき知らずにぼくらさみしさを撒く (西鎮)

有村・評

暗かった冬が終わり、陽光の満ち溢れていると思われる「三月の野」。
三句目の「とき」で切れるのか切れないのか、「知らずに」のかかりどころがどこなのかをどう読むかで、ちょっと読みがぶれるかなと思いました。多少補うならば「陰るとき、知らずに」なのか「陰るとき(を)/知らずにぼくら」なのか、といった感じに。
前者で読むならば「陽光が陰ってしまって、知らないうちにぼくらがさみしさを撒いている」といった内容になるでしょうし、後者で読むならば「これから陽光が陰るの知らない(疑わない)で、陽光のなかでぼくらがさみしさを撒いている」といったところでしょうか。
どちらが詠者の方の意図した読みかはわかりませんが、個人的には陽光のあかるさとさみしさの対比の効いた後者で読みたいかなと思いました。

4.

サウナにてみんな無言で見つめてた追悼志村けんの特番 (街田青々)

中本・評

「バカ殿様」などに扮したコメディアンの志村けん。彼は新型コロナウイルスにかかり、亡くなった。その追悼特別番組がサウナのテレビで流れているというのである。
サウナにいる人々は、衣服を着ていない。テレビを見ながら汗をかく姿は滑稽だ。しかし同時に、熱気に耐えるサウナでは、人は真剣でもある。一体何をしているのかと思わなくもない。
間抜けだが人間的で、真剣。彼の追悼にふさわしい場所はここなのかもしれない。死者について、「志村けんがなあ」と喋っているサウナも、おそらく同時に存在した。語り手のいたところが無言なのは、ある程度たまたまであると感じる。志村けんは死んでなお、私達に少し勝手な振る舞いをさせるのではないか。

5.

わたしたち皆の棺として地球どんなに美しいかしれない (冨樫由美子)

堂那・評

地球に美しさを見出すことは難しくないが、ここでは棺つまり死骸を抱くものとして、さらに美醜の判定をも下す点が特異である。
地球の美しさと言えば豊かな水や緑をまず思う。そしてすべての生命は地球から生まれ、死して地球に還る。生命のサイクルは地球ひとつで完結しており、綺麗に整合する。すると地球は見た目に美しいばかりでなく、システムとして調和のとれた美しさをも帯びていることに気付く。知覚の範囲を超えて回る完璧は計り知れないものだ。
ところでこの歌はどの時点を詠んだものか。現時点で地球には棺としての側面はあるし、あるいは、すべての命が死に絶えた未来を想像することもできる。その静寂は後ろめたくも美しく、現前しないからこそ「どんなに美しいかしれない」。
もっとも、どうあれ一惑星で完結する調和の美しさが損なわれることはないだろうし、未来へ想像を広げないとしても生と死に溢れる地球への讃歌として読むことができる。

6.

切手を貼ったら届いてしまうということがかなしくてもう恋なのだろう (白水ま衣)

坂中・評

分かるようで分からないけど何となく「分かる」類の歌。つまり論理は分からずとも「悲しくてもう恋なのだろう」、と言われたら納得してしまう勢いがある。このように論理が人間の感情によって押し切られる歌には個人的に惹かれてしまう。切手を貼ったら届いてしまうことがかなしいのであれば、しなければよいのに。と言ってしまうのは無粋である。そうしてしまってでもやらざるを得ない、その非論理性こそが歌の重心なのだろうから。語の切れ目はやや無理矢理感を感じなくもないが、「きって」「はったら」と促音が続くリズムが心地よい。この歌の良い勢いのようにどうか、いい恋でありますように。

平出・評

郵便のシステムってすごくて、宛先の住所とサイズ・重さに応じた料金の切手が貼ってあれば、全国に それ を届けられる。その、郵便物を届けることの容易さ、が比較対象になることによって、一方での届けられないもの、が浮かび上がってくる。このひとがかなしいのは、「切手を貼ったら届いてしまう」からではなくて、そのことによって自覚する「届けられなさ」なのだろう。物理的になのか、精神的になのか、断言はできないが、僕は直感的に、精神的な理由だろうと思った。自分に、いわば、決意、さえあれば届けられる、ような状況を想像した。「恋」という語に注視するならば、その想いの対象の誰かに それ を届けられない、ような。
恋のもどかしさというテーマはありふれたものだが、それが郵便というシステムと対比させられることで見えてくる、その構造がおもしろいと思った。

明日につづきます。よろしくお願いします。


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