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えいしょ同人・短歌投稿企画 「詠所(えいしょ)」評③

本日もよろしくお願いします。

1.

夏の夜の汗と涙といろんななにかでぐちゃぐちゃになってするキスを (いこま)

御殿山・評

定型に押し込んでいけば、「夏の夜の/汗と涙と/いろんななに/かでぐちゃぐちゃに/なってするキスを」になるのか、音はやや余り気味で三句から四句にかけての跨りがある。勢いを感じる韻律なので、「いろんななにかで」をまるまる三句としても取れる。そのへんの荒っぽさが、歌意と合っていると思う。
結句の言い差しが、ある種の獣的なキスの存在を誰かに向けている。それはどこか、経験的に知っているそういうキスの反芻にも思える。だとすると、不特定の「いろんななにか」も、不特定のまま反芻されているようだ。分析のない反芻が、歌の獣性を高めている。

2.

解放と自由は違う制服を脱いでも私は飛べないままだ (野添まゆ子)

有村・評

「解放」と「自由」。似て非なる言葉です。「解放」は、「束縛されたり、制限されたりしているものを、ときはなして自由にすること」。「自由」は、「自分の意のままに振る舞うことができること」(※goo国語辞書参照)。
「制服」(学校の、でしょう)を脱いだら、自分は束縛から逃れ、自由に飛ぶことができるのだと思っていたのでしょうか。しかし実際は制服を脱いでも、飛ぶことができていないという現状にいて、「自由」というものの難しさについて考えることになったのかもしれません。

3.

異世界のヒロイン集めお肉券お魚券で豪遊したい (涸れ井戸)

中本・評

お肉券、お魚券は、新型コロナウイルスの蔓延した2020年、国民に現金ではなく商品券を配ろうという提案がなされたことに由来する言葉である。
しばらく前から、小説などで「異世界転生もの」が流行っている。ファンタジー世界に新しい生を受け、活躍する物語だ。だが、この短歌では語り手がファンタジー世界に行くのでなく、ヒロインの側をこちらに呼び寄せている。
心配になる。お肉券で複数のヒロインたちと豪遊できるだろうか。そして、それは望ましいことなのだろうか。もし語り手がウイルスの保菌者になったら、ヒロインたちにもうつしてしまうかもしれない。あと、異世界というのは本当はない。
経済政策をあつかう社会的な短歌なのかもしれないが、まず自分の欲望が真っ当かどうか考えてもらいたい。語り手に説教したい気持ちにさせる良い作品だ。

4.

嘉永五年武蔵国の馬場村に鼻をほじりて寝る男あり  (あひるだんさー)

平出・評

一応、とりあえず情報として書いておくと「嘉永五年」に「武蔵国の馬場村」はあった、みたいです。
嘘じゃない、けど、本当じゃない、よな~と思った。たぶん、いただろう、そういう男が。でも、この「たぶん」を外してこれを言うことはできない。まず見てはいないだろうし、もちろん映像なんか残っていない。そういう文献でも残されているならまだ 言える と思うが、わざわざそんな記述のある文献は残されていないだろう(調べてないので、あったらごめんなさい)。
この、「あり」の微妙な 本当じゃなさ は、この歌のうえで「嘉永五年武蔵国の馬場村」という 本当 と並べられることで、気になってくるものなのだと思う。なにか、それこそ記録文献のような文体から醸される 本当 っぽさも相まって、本当じゃないけど嘘じゃない、絶妙な読み味になっている。

岩田・評

昔話の冒頭のような、おもしろい短歌だ。「物語性」を持った短歌というのは沢山あるが、そういう数々の歌とこの歌では、違うところがある。それは、物語の展開の有無だ。この歌のなかでの動きは、「男」が、「鼻をほじ」って「寝る」だけである。これでは物語は動かない。もしかしたら物語には続きがあるのかもしれないが、このように切り取られてしまうと、良い意味で、続きが想像できない(逆に言えば、無数の続きがあり得る)。物語を切り取ったとき、その切り取った部分を現在とするなら、「続き」は未来だ。じゃあ過去はと考えると、当然その切り取った部分の「前部」と言うことになる。しかしこの歌は、冒頭を切り取っている。前部が存在しないのだ。ないものは想像できない。つまり、この歌には「男が鼻をほじって寝ている」以外の物語がなく、換言すれば、ちょうどそれだけの物語があるのだ。短歌の短さを上手く用いた、面白い作品だと思う。

5.

中腸腺を黒く晒せる貝ありぬ鵜方ファミリープラザの看板 (山川築)

のつ・評

〈中腸腺〉は貝の消化器官の一つで、暗緑色・暗褐色であることが多いという。基本的にそれは目視できる部分ではないものだ。しかしながら、店の看板ではその部分がありありと描かれてしまっている光景が過不足なく描写される。
この一首は、単語の選択が巧みだと思う。〈鵜方〉という地名の耳慣れない感じに加えて、〈ファミリープラザ〉というその地域では昔から人が割合集まっていそうなローカルな商業施設に、貝を何となくの把握で看板に描いてしまう大雑把さはいかにもありそうだ。地名に「鵜」が入っていることや看板の貝からは、水辺に近い地域としてのイメージのつながりを思った。
〈中腸腺〉という専門用語に、それが晒されてしまっているという指摘から、主体にとって貝は身近なものゆえに観察が働き、現場のありようが鮮明に感じられた。

坂中・評

 漢字や固有名詞、文語表現が使用されていて、一見すると固い雰囲気の短歌だが読めばじわじわとユーモラスな歌である。「鵜方ファミリープラザ」とは、検索結果によると志摩市にある商業施設らしい。また、画像検索で「中腸腺を黒く晒せる貝」らしき看板も見つかった。つまり実景を詠んだ歌だと取れるが、このモチーフを描写する着眼点が面白いなと思う。その面白さの一つは貝の描写である。貝にある中腸腺がどれであるかということは、多くの人が知っている知識ではないと思う(多分)。また、唐突に登場する鵜方ファミリープラザというという地に足のついた固有名。この徹底的にミクロな視点の置き方に対する「置いていかれ方」が楽しく、それはこの上句の表現手法、つまり興味の掴ませ方がテクニカルであるからこそ、この楽しさにつながるのだろうと思った。

6.

事情なら薄々わかっているだからごめんなさいって早く言えバカ (月本ゆみ)

堂那・評

寝坊で遅刻したとか、急な仕事で約束をすっぽかしたとか、一応腹は立てるけど謝ってくれれば水に流しても良い、という程度の軽いすれ違い。
なにかしら悪いことをされたのだろうけど、そのこと自体よりも謝ってくれないことが問題になっている。本心としてはむしろ早く許して平常に戻りたいのだけど、相手がけじめをつけてくれないから苛立っているような。
下句の畳み掛ける口語は実際の台詞のように読めてスピーディーかつリアル。特に結句は数音ずつの単語が並ぶためか、四句結句をフルに使っているにしては短く感じられる。
対して上句は三句目に句割れが発生し、不自然な位置で切れてしまう。会話文のような上下を接続する「だから」は少し硬く、やや書き言葉に近い。文の切れ目と句の切れ目がずれているせいもあり、「だから」の挿入が唐突で強引に見えてしまった。ここでは音数を厳密に揃えるより文体を崩さないことに注意するべきだったのかもしれない。

明日につづきます。よろしくお願いします。

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