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えいしょ同人・短歌投稿企画 「詠所(えいしょ)」評⑦

最終日です。本日もよろしくお願いします。

1.

人よりも猫の頭が多い家あなたはここで育ったんだね  (芍薬)

中本・評

人よりも猫の頭が多い家。それは、人よりも猫が多い家である。だが、「頭」という一語によって、読者は人と猫を「頭の数」で数えることになる。下の句の「あなたはここで育ったんだね」が、知人の家に対するごく普通の感想である。普通の感想を導いているからこそ、頭で数えるという変な認識が伝わってくる。
変な認識だが、無根拠とまではいえない。人間は二足歩行で、猫は四足歩行だ。首から下の角度が違う。頭の下に縦の体が付いたのが人間で、頭に横長の肢体が付いたのが猫だ。頭中心の認識には、少し説得力がある。この短歌を読むと、自分自身にも変な認識の素質があることに気付く。

有村・評

事前情報として「あなた」の育った家についての話をきいていたのかもしれません。はじめてその家を訪れたことの感慨をあらわした歌と読みました。たくさん猫がいる様子を表現するのに「人よりも猫の頭が多い」と描かれたのがユニークです(猫たちを上の方から俯瞰している感じなのでしょうか)。「あなた」は主体の親しい人なのかもしれないし、もしかしたらその家から引き取った猫なのかも。
その家を訪れたことによって、思いが「あなた」にフィードバックされてゆく感じがよいなと思いました。

2.

信じると言いきったときあなたにはさせない傘があるのを知った (千仗千紘)

のつ・評

発話された状況や背景を知ることになった詳しい経緯はわからないものの、〈信じる〉と発話した〈あなた〉の気持ちの強さと、そんなあなたの背景を知ることになった主体のはっとした表情が思い浮かんだ。〈あなた〉の気持ちの強さは、〈言い切った〉という語彙の選択によってまず立ち上げられ、そして〈には〉という強調の助詞が〈させない傘〉が〈あなた〉固有のものであることを示すように作用する。句またがりすることのない五つの句切れは、ひとつひとつを噛み締めるようだ。
この一首の読みどころは〈あなたにはさせない傘〉という比喩表現だろう。傘は一般に雨に濡れないよう身を守るための防具だ。それを用いることができないということは、何かを庇護できないことを示すように思われる。〈させない〉ことが能力的に不可能なことであるのか、あなたの信念(あるいは思い込み)に由来するものなのか、解釈がわかれる部分がこの歌の難しいところだと思う。

3.

言い訳を用意してからすべる指 電波に乗せる恋の不始末 (大島健志)

堂那・評

なんらかのメッセージを送信した。しかしそれは「不始末」と呼ぶべきもので、理想的なものではなかった。だからこそダメージを緩和するために言い訳を用意しておかなくてはならない。
「不始末」と言いながら送ってしまうところが情けない。けれど常に格好良くいられるわけでもない。自虐的な言い方がまたダサいのだが、それも定型に収まることで格好がついたように見えてしまい、かえって滑稽に映る。恋愛ごとに限らず、この一首は自分を取り繕ってしまう人に重なってくる。
「すべる指」というのは、口が滑ったり手が滑ったりする滑りのことだろうか。責任を逃れたい一方で、送信してしまってもいいやと思っているらしい半端な心構えがまた見苦しい。その見苦しさがリアルである。
場面も心情も想像しやすい一首だが、上句と下句それぞれ独特な表現がお互いを説明してしまう作りになっている。読みやすい反面飛躍が少なく、読んで納得して終わってしまった。

4.

伝統の誇りに月光撃下ろす裸身に纏うトレンチコート (中牟田政也)

平出・評

そんな「伝統」があるなよ。ちょっと、いまひとつ読み筋に自信の持てない歌ではあるのだが、とりあえず「伝統」という語と「裸身に纏うトレンチコート」の取り合わせに、そうツッコんでしまう。いやすぎるでしょそんな「伝統」。まあ別にひとに迷惑かけてないならいいんだけど。
「月光撃下ろす」とか言って、なんかシチュエーションも様になってる?ところに、このオチはわかりやすすぎるけどおもしろい。
ただ、先述のように、僕はこの歌の読みに自信を持つことができていない。そうなってくると読者としてのツッコミの切れも悪くなってしまう。うーん。

5.

バスタブでわたしが自由になってゆくこんなに狭いアパートの隅 (ことり)

御殿山・評

バスタブで自分が自由になってゆくような感覚には共感性があると思う。ただ、主体の住居が狭かったとしても、この自由の感覚は、狭い中での広さを覚える方向に行きがちだと私は勝手に思っているが、この歌の主体は徹底して狭さを把握している。「隅」とまで言っている。ではそれが窮屈なのかと言われれば、自由になっているのでそうとも思えない。
これは、自由と広さは関係がないという意識の歌なのではないかと感じる。自由とは広さだという印象を捨て、広くても自由だとは限らない、現にここまで狭いところが主体にとっての自由なのだ、と突きつけられているかのようである。その指摘には、はっとさせられる。

6.

ハッピーが遠い 割りばしいらんのに二本もらってきた いらんのに (はね)

岩田・評

読んで、「ハッピーが遠い」に共感した。「割りばしいらんのに二本もらってきた」。これはたぶん、店員さんに「割りばし何本お付けしますか?」と聞かれて、(一人で食べるのに)とっさに「二本で」と答えてしまったのではないかと思う。評者にも同じような経験がある。その時はとっさに、ではあるが、後から考えてみるとそれは、店員さんに一人で食事すると思われることへの恥ずかしさや、見栄からくる言動だったと分かるのだ。そして最後のリフレイン「いらんのに」である。この繰り返しによる余韻は「ハッピーへの遠さ」を思わせる。「ハッピー」と言うときと「幸せ」と言うときの違いは何だろうか。具体的に書くことが出来ず申し訳ないが、「ハッピー」には何か「幸せ」にはないふわふわとした能天気な感じがある。シンプルな歌の構造ではあるものの、「ハッピーへの遠さ」というか「虚無感」のようなものを表現できていると思う。

坂中・評

「ハッピーが遠い」いい表現だなあ。このように日常に足のついた歌は共感性の高い歌だと思う。単語の斡旋からもその日常的要素が伺える。表現技法としては、「ハッピーが遠い」ことと「割りばしいらんのに二本もらってきた」ことは順列の出来事あるいは詩的飛躍というより、並列の心の動きのように思える。つまり、上の句に対しての順序だった理由として下の句があるのではなく、意識の流れとして書かれているような印象。その流れ方が自然でそこに共感の軸足が置かれうる。しかし上の句の表現のユニークさと、「いらんのに」のリフレインがテクニカルで、単なる共感にとどまらず、読ませる歌だなあと思う。

以上です。一週間にわたり、ご覧いただきありがとうございました。
明日、投稿作品の全首評一覧を公開いたします。おまけつきですので、こちらもご覧いただけますと幸いです。

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