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えいしょ同人・短歌投稿企画 「詠所(えいしょ)」評④

折り返しです。本日もよろしくお願いします。

1.

幼子がするりと風船手ばなせば取り戻せないものまたひとつ (三浦なつ)

中本・評

浮くタイプの風船だろう。幼子が手放すと、上空へ飛んで、もう取り戻せなくなる。
ただし、ここで「取り戻せない」と思っているのは幼子ではなく語り手である。「するり」と手放す幼子には、もしかしたら風船に対する執着は案外乏しいかもしれない。語り手によって、「取り戻せないものまたひとつ」という感興が付け加えられている。
「またひとつ」という言い回しからは、幼子がこれまでに、そしてこれからも、いろいろなものを失って取り戻せないという認識がうかがえる。しかし、その認識も、語り手の認識であって幼子のものとは限らない。
やがて幼子にも、悟るときが来る。たくさんのものがすでに取り戻せないのだと。今はただ、幼子を見守る人物のみが「取り戻せなさ」を語る。

2.

僕に付くカラータイマーかのように赤点滅は帰りを照らす (らま)

堂那・評

言わずと知れたウルトラマンの警報装置がカラータイマーである。活動時間が限界に近付くと赤く点滅を始め、大抵そこから本気を出して怪獣を倒してしまう。
ここで言う「赤点滅」は交通信号のことと読んだ。地域差はあると思うが、ある時間を過ぎると信号は点滅するだけの機械に変わってしまう。もちろん交通量の多い時間ではないはずだから、「僕」の帰りは相当遅いことがわかる。おそらく他に通行人もおらず、自分と信号だけの世界が見えている。
カラータイマーは点滅し始めたから即敗北というわけではない。「僕」の勝利条件はよくわからないけれど、厳しい終盤戦を耐えれば勝ちなのだ。と言うより、勝つために今が最後のひと踏ん張りなのだ。
難を挙げると、「僕に付く」「かのように」ともに言い回しとして無理な圧縮を感じる。「カラータイマー」を定型に収めにくかったのかもしれないが、少し語を削っても同じ情景を提示できたかもしれない。

3.

もう会えはしないだろうなコカ・コーラ飲まずにかけてひどいべとべと (坂本阪本)

坂中・評

情景が分かるようで一筋縄ではいかない歌だ。上の句で発せられる主体の心情から、誰かともう会えなくなる未来が予感させられるのだが、続く「コカ・コーラ」以降の主語によって読み筋が変わってくる歌だと思う。誰かが、誰かに(あるいは何かに)、コカ・コーラをかける。主体がかけたのだとしたら加害側となるが、それを「ひどいべとべと」と妙に冷静に見ている。また「会えはしないだろうな」と予感しつつあえてかけているのだとすれば、その諦観あるいは開き直りのような上の句の心情が面白い。主語等の省略もあり、別の読み筋も大いに考えられるが、わたしとしては諦観説を推したい。その心理に至る主体を想像すると、何だか妙に惹かれてしまうのだ。

4.

歴史的ハルにたまたま居合わせてまばたき、呼吸、そしてペヤング (藤田美香)

のつ・評

勝負に出た歌だと感じた。歌の意味を正確にはとれないが、これまでに見たことのないものを目の前にして期待に向かう手触りを思った。
上の句では〈歴史的ハル〉は時節柄、時事的なものを見出したくなるのだけれど、〈ハル〉というカタカナの表記や(「偶然」という類義語と比較して)〈たまたま〉という副詞の軽やかさに深刻さは見出しにくく、そのテンションで下の句へと向かっていく。
読点で名詞をつなぎながら下の句を展開するのはひとつのパターンで、ここでは「意味やイメージに距離のあるものを並べて飛躍させる」やり方をとっている。〈まばたき〉〈呼吸〉までは身体の動作という共通項があるために、そこから外れた〈ペヤング〉は〈そして〉を助走にしながら、かなりの力技で飛躍する。言葉の響きも相まって一首はポップな印象を得る。力技は読者が読解する上で不親切になりやすいからそれにどこまでついていけるかにこの歌の面白さは左右されるだろう。

5.

だんだんと交わす言葉も消えてゆき君には樹木葬が似合うよ (嫉妬林檎)

岩田・評

親しい人の死の場面のようにも思えるし、親しい人と疎遠になっていく過程を表現しているようにも思える。前者の方が読み筋としては強いだろう。下の句の「樹木葬」と言う言葉、そして上の句「交わす言葉」が「減っていく」のではなく「消えてゆ」く。どちらも死を思わせるものだ。その親しい人のパーソナリティには「樹木葬」が似合う、と主体は考えている。美しい景が立ち上がる、と一読した時は思った。しかしよく考えると親しい人の死の場面で普通、悲しみを差し置いて、「どの埋葬が似合うか」にまで思考が飛ぶだろうか。だとすると何らかの病気で、会話能力が低下していく過程を表現しているのかもしれない。…という風に後から後から異なる読みができてしまう。この評価は分かれるところだろう。最後に、「だんだんと」と「消えて『ゆき』」をどちらも言う必要があっただろうか。「消えてゆき」だけでもこのニュアンスは表現できているようにも思う。

6.

心が折れた やり過ごすためのエフェクトは高橋留美子の擬音で頼む (榎本ユミ)

平出・評

先に断っておくと、僕はそれほど高橋留美子作品を読んだことがない。そのため、ある意味でこの歌にとっての望ましい読者ではないのかもしれない。そのうえで、自分なりに真剣にこの歌を読みます。
一応「めぞん一刻」は読んだことがあって、どういう「エフェクト」「擬音」があったかなと考えると、この歌で言われているのは「ちゅどーん」のことだろうかと思う。なにか衝撃的な発言がなされたとき、「ちゅどーん」と爆発が発生して、それを聞く者が飛びあがったりしていた記憶がある。たしかにあれは「やり過ごし」の一種と言えるな……という発見があって、それを発見させてくれたこと、は、この歌によって僕にもたらされたものだと言えるだろう。
ただ、先に述べた「高橋留美子の擬音」の共有可能性の問題はどうしてもつきまとう。いっそはっきりと、もし「ちゅどーん」のことならそうであると、歌のうえで書いてしまったほうがいいかもしれないと思った。

7.

どうしたら象になれるんだろうって、もう眠ってる頭半分 (小泉夜雨)

有村・評

人間は通常象になることはできないし、子供のときならいざ知らず大人になってからもあまり象をめざすことはないと思うのですが、この主体はそのあたり人としての常識をとっぱらった頭でどうしたら象になれるのかと本当に思ってるのかもしれません。
「もう眠ってる頭半分」は、眠っている方の頭が常識から離れてそう考えているようでもあり、逆に、半分が眠っているから眠っていない方の頭が考えているようにも思われました。

御殿山・評

「寝ぼけているときを言語化してください」と言われたとして、それに成功した歌だと感じる。寝ぼけているので、自分の本来の意識があると言えばある。しかし夢の世界にも意識があると言えばある。ある意味で意識が分裂していて、かつ同一の主体に根差している、それが寝ぼけ状態なのかもしれない。
上句の、寝ぼけているときに言いそうさがすごい。日常会話で聞いたら、寝ぼけてるのって訊いてしまいそうな。つまり上句は夢の意識で、下句で本来の意識が発話する。結句の「頭半分」が、分裂的なニュアンスを持つが、二つの意識が「同じ頭」にあるとも言っていて、主体を同じくする意識の分裂が、真に主従なく存在している描写になっている。半分夢、半分現の感じというものは、おそらく多くの人が現実に体験したことがあるはずだが、少なくとも私は、その時の感覚をこの歌に説明してもらえたと感じている。

明日につづきます。よろしくお願いします。

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