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えいしょ同人・短歌投稿企画 「詠所(えいしょ)」評⑥

いよいよ大詰めです。本日もよろしくお願いします。

1.

道化師は揺れながらスキップ ライオンはキメポーズよっこらせっと (紫)

中本・評

道化師は揺れながらスキップすることで観客の気持ちを浮き立たせる。ライオンがポーズを取る。サーカスの一場面だ。軽業のような限界を越えた動きではない。リラックスした場面だろう。
道化師とライオンの役回りは、奇妙といえば奇妙である。人間の側が体の動きで魅せていて、猛獣はポーズを決めている。「よっこらせっと」は人間的だが、道化師ではなくライオンの動作だ。
言葉のリズムは、三十一音ではあるものの五七五七七ではない。五五四五五七。「五五」という同じリズムの始まり方をして、さらに、「四」「七」の部分では「スキップ」「よっこらせっと」。小さい「っ」を繰り返す。小刻みに踊る語感が内容と合っている。

2.

朝よりも夜が好きだというひとと朝しか会えぬ関係である (岡田奈紀佐)

有村・評

夜しか会えない関係、というのなら、道ならぬ関係なのかなと思うところですが、「朝しか会えぬ関係」というのは、どんな関係なのでしょうね。朝の通勤途中等に会う人、もしくは仕事の関係で朝だけ会う人(一日中一緒ではない職場)などが思い浮かびますが、それでいて相手が朝よりは夜が好きだということを知ることのできるくらいの関係性なので、後者に近い感じなのかなという気がします(あるいは以前からの知り合いだけど今は朝にしか会えないとか?) 
いずれにしても「朝しか」という限定は、自分の意志で自由な時間に会える相手ではないという関係性を示していて、どこか片恋のような印象を受けました。

3.

小鳥から大きな小鳥になるまでを饒舌に書かないでほしいな (安錠ほとり)

のつ・評

苛立ちが透けて見える歌だと感じた。この歌のなかで槍玉にあげられているのは〈饒舌に〉という部分で、言葉を尽くすほど意味が希釈されてしまうことへのつまらなさが、表れているように思った。上の句の〈小鳥から大きな小鳥になる〉というのもひねった表現だ。
雛から成鳥になるまでを言い換えたとすると、解釈としてはわかりやすい。すると成長の過程を自分の目で確かめる前に、ネタバラシされたことへの腹立たしさかもしれない。そうなると書かれたものを読む主体像も浮かび上がる。一方小鳥が単にサイズの小さい鳥であればすでに成鳥の可能性もあり、そうなると〈大きな小鳥〉はなんらかの理由でサイズアップしたようにも読めて、不思議な世界に巻き込まれた感覚におちいる。「饒舌」は本来話す行為への形容だから、「饒舌に書く」という表現もやはり違和を感じるように作用する。

堂那・評

「小鳥」に対して「小鳥」「大きな小鳥」以上の情報は求めない。熱量と距離の取り方が独特だ。さらに、小鳥は成長してもしなくても小鳥なのだ、という真理を示す。雛鳥とか親鳥とか成鳥とかいった呼び方は一切捨てて、小鳥はどこまでいっても小鳥なのだ。大雑把だがそれは確かに正しい。
「饒舌に書かないでほしいな」という言い回しは柔らかいが、裏腹に強い拒絶を感じる。「饒舌に」という限定は譲歩であると同時に、越えてはならない一線を引くものでもある。それは小鳥が変わっていく様を知りたくないからかもしれず、侵されたくないものとして小鳥はある。小鳥は「小鳥」でしかないから読者としてもそれ以上は踏み込めない。
あまり詳しく話したくない事柄はあるものだと思う。変わっていくことはなにかが失われていくことかもしれず、それが小鳥のネガティブな部分なのかもしれない。ただの好き嫌いとも違うような、奇妙な心持ちをアピールしてくる。

4.

食べるからってヤギに何でもあげちゃだめスプレー缶はとくにあぶない (抹茶金魚)

平出・評

「ヤギに何でもあげちゃだめ」なのはその通りで、動物園などでそういった旨の張り紙を見たことのあるひとも多いだろう。たとえばヤギには紙を食べるイメージがあるが、インクが有害だったりで「あげちゃだめ」なのだという。
「スプレー缶」にあぶなさのイメージがあるのもわかる。火気に近付けると、あれは爆発する。処分・保管の際に気を付けなければならない、という情報は知られたものだろう。
それらふたつの情報が、へんなところで重なりあってるのが、この歌なんだと思う。ヤギもさすがにスプレー缶は食べないし、スプレー缶をヤギに与えてもそのことによっては爆発しない。要するにこの歌の言っていることはおかしい、のだけれど、それぞれのイメージそれ自体の正しさによってか、一読した時点では「なにかがおかしいけどなにがおかしいのかわからない、のがおもしろい」読み味だった。し、それを解明した後の今でも、そのおもしろさ、は消えていない。

御殿山・評

全く間違ったことを言っていないのに間違っている気がするのは、「スプレー缶」の意外性に他ならないが、実は巧妙に把握の間違いが仕込まれている。上句は欠陥のない文章だが、ヤギにも食べられるものと食べられないものがある、という当然の暗黙の前提がある。「あげちゃだめ」なものの範囲はヤギが食べられるものに限られているので、無論スプレー缶は危ないんだけれど、そもそもここで挙げるのは間違いなのだ。ゆえにスプレー缶にヤバさを覚えるのは自然だし、それは気づけることなんだけれど、同時に「とくに」の例としてスプレー缶が挙げられた理由は気づきようがない。別に火炎瓶でもいいのだ。危ないし。となるとこの歌は、今、主体の周りにあるものの中ではスプレー缶が特に危ない、ということかと思ってしまう。それはこのヤバさが、現実味を帯びることでもある。

5.

コロの付くことばが忌み嫌われるきょうこの頃こころここにあらず。 (楽胡)

岩田・評

時事詠だろう。「コロの付くことば」とは、コロナウイルスの事か。評者は、コロナウイルスの影響でコロナビールが売れない、というニュースを見た事があるが、そういう事を表現したいのならば、「コロと付くもの」や「コロと名の付くもの」のようになるだろうから、この、「コロの付く言葉」と言うのは、コロナウイルスそれ自体の事だろうと推測する。そして「コ」の音が連続していることも注目すべきだ。どちらかと言うと、作為的であまり面白くない。「言葉」というワードチョイスも「コ」の音ありきかと、疑ってしまう。表現したいことが、レトリックによって邪魔されているように思われる。上の句で「コロナウイルス」という長い単語を避け、韻律を整えた割に下の句は字足らずで韻律も崩れる。最後の句点もあまり効いているように思えない。しかし、コロナウイルスへの不安で、心ここにあらずという内容は良い。皆に共感され得るものだろう。

6.

20時に絡んだ指を柔く離す送り狼 待っているわ (文車雨)

坂中・評

雰囲気のある相聞歌である。「絡んだ指」とあって、指を絡ませることのできる関係というのは一般にかなり親密な関係であると言えるので、言葉の節々からどのような関係であるかが伺える。読みとしては、逢瀬の別れの場面として読んだ。しかし、である。20時ってこの雰囲気の別れの場面としては少し早くないだろうか。ミッドナイトというのには早すぎる。「狼」や「絡んだ指」を離す時間にしては健康的というか中途半端な時間で、そのギャップがむしろ面白い歌だと思った。

明日が最終日です。よろしくお願いします。

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