2021.06.25 深夜
私は、私の知る人が死んだ事を知った時、強く時の流れを感じる。
別に実際に会った知人でなくてもいい。名前を聞いたことがあって、顔が思い浮かぶ人だ。ニュースで人が大量に死んだと聞いても、このご時世らしく感染症で亡くなった方が大勢居ると聞いても何とも思わない事が多いが、例えば名前を聞いたことがあるイラストレーターが死んだと聞けば急に意識が遠くに行ってしまう。記憶を掘り起こしにかかるのだ。きっとその時間旅行のせいだろう。
人の死によって、自分がそれだけ生きてきたんだ、と改めて実感する。今でも印象に残っている、この感覚を初めて私に与えたのは、ジャイアント馬場という人物だ。ほとんど交流のなかった実の祖父が死んでも得られなかった寂寥感、虚無感を強く感じた。別に、彼のファンだったというわけではない。プロレスそのものには縁がなくても、彼はバラエティ番組や書籍などでも見たことがあり、その人柄やキャラクター性から多くの人に親しまれたんだと思っている。そんな人が死んだのだ。急にぽっかり穴が空いたような気分になった。長い時間ではなかったが、ただただ寂しかった。今でも覚えているくらいには、そうだった。
私は、この世は生きている人しか物事を成し得ない、という考えを持っている。作品、書籍、伝聞などで人の心に残るだろう、などと言われる方の方が多いだろうが、その機会を用意し、その機会を取りに行くのは結局生きている人間であって、それらの努力無しに死者の遺物は次世代に引き継がれないのだ。
私は、長生きしたいという願望は無いが、死んでもいいと思うことはない。何かを成したい、という想いより、何も成し得なくなるという事実を受け入れることが出来ないんだと解釈している。明確な目標は立てていないにしろ、何かを成し得るかもしれない可能性を持った自分に、密かな期待を抱いている。
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