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仏教未来フェスで語った看取り体験


花まつりの日の仏教イベント

前回の投稿は、個人的なことをうだうだと書いてしまったので、今回はもうちょっと、他人様に読ませる風のことを書きます。

先日、といってももうふた月近く前ですが、4月8日に仏教未来フェスという仏教関係のオンラインイベントがあり、出演させていただきました。

仏教未来フェス

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https://airderajapan.wixsite.com/miraihotoke

仏教関係者が寄り集まって、zoomを使って、あーだこーだと5分の持ち時間で、好き勝手話すというコンセプトで、縁あって発起人の一人の名前を連ねさせていただいた。

この日は日中に墓参りに行っていたので、夜の出演になった。花まつりに墓参りとは、妙なこととも思うが、この日はお釈迦さまが生まれた人されている。大乗仏教で。本当は別の日に老母と墓参りに行くはずだったが、母の都合を聞いたり、花見を兼ねようと天気の様子を見たり、コロナの感染状況などを勘案しているうちに、そして、そもそもこの日にするのがやはり自然だよな、ということにも気づき、一日がかりのフェスの昼の部の参加は断念して、都下山中の墓地に向かったのである。

そのようなわけでフェスの出演は夜になり、5分ほどお話をした。5分というのは一つのまとまったことを話そうとすると短い時間なので、台本を用意して、予行演習もして挑んだが、下記にその台本をアレンジして掲載します。これは私がこの半年あまり考えていたことで、サンガ新社(https://camp-fire.jp/projects/view/427039)が設立された後、オンラインセミナーとして企画したいことでもあります。では、以下、台本。

「サンガ破産の日と、島影社長の逝去と、4月8日は看取りの思い出」

サンガが破産申請したのは1月27日。私たち社員は即日解雇。
島影由美子氏に確認していないが、奇しくも、この日は島影透の葬儀からちょうど半年。葬儀は7月27日だった。

亡くなった日というのはメモリアル。
葬式仏教というけど、悪いことではないと思う。
死は、生命に等しく訪れる。
そして、送ることも送られることも人生の一大事だから、その一大事に生老病死の苦を喝破した仏教がコミットすることは、とても自然なことだと思う。

しかし、私には不満がある。
葬式は、送った人には意味はあるが、送られる人には意味がない。形式的にはあることになっているのかもしれないが。

ここから本題。
8日は、父の月命日である。
昨年10月8日に亡くなった。
夜の19時半に息を引き取ったが、その日の朝には、もう危ないと思っていた。その日は会社を休み、といってもテレワークでもともと在宅だったのだが、父の介護ベッドの横に椅子を置いて、ずっと横にいた。
そして、意識を父から一瞬もそらさないように、父との会話を続けた。

それはとても濃密な時間だった。
そして得難い時間だった。
私は、幸い仏教関係の知人が多いので、何人かの気の置けない人に看取りの瞬間について、相談していた。テーラワーダ仏教とチベット仏教。両極だがどちらも仏教。親身のアドヴァイスをもらった。

そして、看取りの時を迎えた。
父は私と母に見守られて、静かに息を引き取った。
とても安らかな最期だった。
私にとって父の看取りは、とても得難い体験になり、喪失感よりは充実感がある。それは今も続いている。
この看取りの体験に関して、仏教関係者、ブッダの教え、そして父にとても感謝している。

看取りは悲嘆ではなくて、とても豊かな体験になる。
しかしそれは、西洋医療の文脈だけに乗っていては、訪れなかった体験だと思う。
父は訪問診療で主治医に見てもらっていた。
がんを患っていたが、放射線治療が功を奏して容態は比較的安定していて、亡くなる一か月前までデイサービスにも通っていた。
なくなる10日前に自力で風呂に入り、そこからは寝たきりになった。

そうした中で医師からは、亡くなるときの兆候と、亡くなったときの対処についてのメモをいただいた。A4の紙3枚に、身体症状の変化と、死亡の確認方法が書かれている。
そして精神面については、

「聴覚は最後まであるといわれています。心残りのないように感謝の気持ちやお別れの言葉をかけてあげてください。手を握ったり、手足をさすったりすることは、ご本人をあんしんさせることにつながります。」

と。
いろんな状況で亡くなる方がいるだろうし、また死生観も千差万別で、誰でも適用可能なところを文字にすると、このような言葉にならざるを得ないのだろう。
人を物質として扱う西洋医学なのだから、これで仕方がない。

でも、これだけでは、本当に看取ることはできない。豊かな「看取り体験」「看取られ体験」をすることはできない。

そこに宗教の役割があるはずだ。
死生観を、死を越えて語れるのが宗教だ。

仏教の未来は、葬式仏教のさらに延長線上、看取り仏教にあるのではないか、と考えたい。
それには、一人一人の仏教者、僧侶の家族とのかかわり、おのが死生観、実存をかけた本当の言葉、それらが必要になるはずだ。そうでなければ、死を迎える人に届かないし、送る人には届かない。

我が家では、幸いに、両親とも私に感化されて、にわか仏教徒になり、youtubeのスマナサーラ長老の法話を聞く機会を持つことができた。
父の意識がまだはっきりとあった亡くなる4日前、「スマナサーラ」と一言つぶやいてくれたおかげで、私はその晩、youtubeでスマナサーラ長老の法話を父に聴かせることができた。

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(日本テーラワーダ仏教協会youtubeチャンネル)

「父に仏縁ができた」そう確信した私は、父が彼岸へと向かう前の1時間ほど、「メッタスッタ」(慈経)の日本語訳と、『チベットの死者の書』(川崎信定[訳]、筑摩文庫)を、父の枕もとで唱え続けた。

最後、父は、母に手を握られ、静かに息を引き取った。

仏教がなければ、このような穏やかな看取り、看取られはできなかった。

これは形式の問題ではない。
また、すべての状況に当てはまるものでもないのは承知している。
しかし、少なくとも、本当に、そこに仏教があれば、死の現場は、豊かな時間になりうる。
その知恵を、日本の仏教には、育んでいただきたいと思う。

以上。

看取りの瞬間のために

父の看取りの時、サンガはまだあり、「死と看取りセミナー」を企画したが、実際に実現する前に会社がなくなってしまった。しかし「サンガ」を求める思いを受けて、サンガ新社がこの夏に立ち上げ予定です。このサンガ新社の企画として、この「死と看取りセミナー」を実現したいと思っています。

「サンガ」復活のためのクラウドファンディング

そういうわけで、いま「サンガ」復活のためのクラウドファンディングを開催中です。

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第2回仏教未来フェス

6月25日に仏教未来フェスが開催されますので、どうぞよろしくお願いいたします。

仏教未来フェス第2回

(https://miraihotoke.studio.site/)

最後はまた宣伝になってしまいました。






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