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私のマイクラ都市開発について:2

こんにちは、永楽町です。X(旧Twitter)での活動が6/15で4年目を迎えました。また、その直前にフォロワーが1000人を突破しましたので、記念に何か書こうと思い至りました。

前回は永松市のインフラ施設や歴史設定等を都市景観と併せて少し紹介しました。

今回は、永松市がどのように造られてきたのか、その開発変遷について綴っていこうと思います。

3年間の開発を一つの記事で伝えるのは冗長になります。そのため、本記事は第一弾として開発を始めた2021年6月から1年間についてお伝えしたいと思います。

前史

その前に、開発着手前に私がどのような計画を練っていたのかをお伝えしたいと思います。マイクラで開発するのに何の計画もなしに場当たり的に進めて行った訳ではありませんでした。

永松最古の計画図(ラフ絵を図案化)

最古の計画図によると、中心やや左に輪郭式の城があり、その周囲には「〇〇町」のような町名が見えます。また、「永松街道」や「翁堂街道」といった江戸期からの街のメインストリートも設定されています。つまり、近世城下町由来の街を作ろうとしており、この考えは現在も踏襲しています。

現代日本の都市のほとんどは近世城下町が基になっているため、それに従った形です。しかしながら、画像中央に見える駅と線路の配置はかなり特殊であるように見えます。城と城下町が線路によって分断されているのです。

明治維新後、日本の鉄道網は急速に発達しましたが、線路建設に際して、当時の官吏や技師は市街地の外縁部を大きくなぞるようなルートを描きました。富国強兵の時代にあって、利便性を考えて長い時間と高いカネをかけて用地買収してまで都心に駅を設けるメリットはなかったためです。そのため現代日本の都市は、旧城下町の中心と代表駅との距離が少なからずある場合が多いのです。

しかし、私の原案では線路が城と城下町を分断するように通り、市街地の中心に駅が設けられています。このような都市は山形や福山、徳島くらいしかありません。

日本の都市の線路配置

つまり、この原案は大方の日本の都市と比較してもイレギュラーなものでした。しばらくはこの計画のまま進めましたが、途中で大幅に変更することになりました。そのことはまた次回以降お伝えします。

21年6月〈開発スタート〉

永松市は2021年6月末から開発がスタートしました。上画像は「道路元標がありそうな橋」として初めて投稿された永松市のインフラ設備です。橋梁名は「桜東橋(おうとうばし)」と言い、デザインは日本橋がモデルです。この橋を中心として周囲に日本橋地区のようなビジネス街を整備していくという方針でした。

桜東橋は最古の計画図で示すと図中央の東西の川と南北の橙道の交差部に位置してます。

7月〈初の建築物〉

その次に、初めての建築物として「暫定行政庁舎」なるものを投稿しました。当時の自分は、「これからちゃんとした都市開発を目指して頑張るために、形だけでも行政機構を作って旗印としよう」という意気込みを持っていました。それを形にしたものがこの建物です。所詮ただの設定ですが、そういう心意気は大事なのかも知れません。

7月は旅行に行ったこともあり、これ以外の進捗はありませんでした。

8月〈初の高層ビル建築〉

8月から本格的な開発に取り掛かりました。日本橋にある建築物を参考に雑居ビルなどを建築し始めました。また、このビジネス街のシンボルとなるようなビルを作りたいと考えました。そこで、派手すぎずさりげない意匠性を持つミュージアムタワー京橋を参考に初の高層ビルを作りました。

9月〈中心駅の設置〉

永松市の中心駅である永松駅は先述した橋の西方に造ることは最古の計画図の通り、既に決めてありました。理由は首都東京の中心駅(東京駅)と元来の都心(日本橋)との位置関係を想起していたためです。

実は、考えようによっては東京も先ほど示した山形や福山と同じ形態をとっています。東京(江戸)の中心は日本橋です。そして、日本橋を起点とする東海道沿いには町人地が存在し、その西方には外濠、そして御城がありました。

さらに大正期、東京中心に帝国にふさわしい中央駅を設けるべく、烏森(新橋)駅から東京市街線が北方へ建設されていき、江戸城内郭と東海道沿いの旧町人地の間にある丸の内に東京駅が建設されました。数年後、東京万世橋間にも高架橋が造られ、市街地が線路によって分断されたようになりました。

改めて永松最古の計画図を見てみると、なんとなく東京駅周辺をイメージしてる感があるように思えます。つまり、私は最初にイレギュラーな都市形態である東京を基に計画を立ててしまい、参考になるような都市が東京の他に、同じ形態である山形、福山、徳島しかないということになってしまったのです。

なぜ参考になる都市形態が少ないといけないのかというと、リアリティがなくなるからです。都市に独自性を持たせるために、イレギュラーな都市形態のまま進めても良かったかも知れませんが、メジャーな方に合わせた方がやり易いのは明らかでした。

ところで、上画像の駅舎は明らかに東京駅をモデルにしています。個人的に、大抵のマイクラ現代建築勢は初めて街づくりをする際、壮大な東京駅や行幸通りをモデルにした街を作る人が多いだろうと思っています。私もそんな一人でした。そのため、上画像のように、地方都市という街の規模にはおおよそ相応しくない駅舎が作られることになったのです。

10月〈鉄道高架橋を建設〉

10月には鉄道高架橋を作りました。先ほど、地方都市という設定だったと述べましたが、人口は100万人程度を想定していました。100万人もいれば大抵の方は「都会である」印象を受けるでしょう。3大都市圏に住んでる方も「地方中枢都市である」と思うでしょう。

自分もそのように考えており、さらに「そのぐらいの都会なら線路は高架橋でしょう」というイメージを持っていました。でも、鉄道高架橋が設けられるのにはちゃんとした歴史的背景と理由が存在します。この時の自分は漠然とした理由で高架橋を作り、後ほど設定に悩まされることになります。

11、12月〈建築を進める〉

11、12月は主に建築作業を進めていきました。この頃になると都市規模が大きくなってきたこともあり、街区形態について深く考えていかないといけないなと思うようになりました。また、駅前大通のような都市の骨格となる街路も設けられていきました。

22年1月〈外堀沿いの建築〉

年が明け、1月には外堀沿いに建築物を作りました。上画像手前の建築物は東京・数寄屋橋にあるものをモデルにしました。当時の自分は外堀沿いの大通りに面した建物には大きな屋外広告物を設置し、いかにも商業が盛んな都市中心部の繁華街であることを印象付けたいと考えていました。ちなみに、手前のビル付近は「角屋橋(すみやばし)」という地名です。

2月〈新幹線ホーム建築〉

2月からは新幹線ホームを作り始めました。当初は在来線のみにしようと考えていましたが、100万人都市なのに新幹線が通っていないのは違和感がありすぎたので、場当たり的に建築し始めました。上画像は建築中の新幹線ホーム支柱です。ホームの長さは約300mであり、これは25m級車×10両程度を想定していたからです。

しかし、この想定は後に永松市とその周辺自治体がどのような様相になっているのか、永松県が日本のどこにあるのかという設定を改めて考えさせられるされることになります。

というのも、新幹線が通されるのならば、どこからどこを通っていて、沿線都市がどのような様相なのか考えなくてはなりません。沿線人口が多ければ両数も多くなります。先ほど、10両を想定していたと述べましたが、これは北海道・東北新幹線の基本編成と同じです。

となると永松は東北新幹線沿線にあるのか、という話になります。しかし、沿線に新たな県を作るというのは、空想の設定と言えどもやはり違和感があります。

面倒くさいのでとりあえず、永松県は本州からあまり離れていない島の全域を行政区域とする県にしようと考え始めました。

3、4月〈建築・土木作業を進める〉

3、4月も建築作業を進めました。この頃の主な建設物はY字交差点です。当時の自分は、道路が全て直交しているのはつまらないので、変化をつけるために斜め道路を設けよう、という軽い気持ちで作りました。

5月〈高層ビル建築〉

5月も雑居・オフィスビル建築を進めていき、桜東橋から南方500m地点にまで達しました。不意に「ここまで来たからそろそろ新たな高層ビルを作りたいな」という気持ちが起こりました。

そこで、最初に作ったビルのモデルであるミュージアムタワー京橋の近くにあった東京スクエアガーデンをイメージしたビルを建築しました。

2022年5月の永松市

また、この頃から不定期に市街地の全体画像を撮っており、上画像はその最古のものです。これをみると、桜東橋が緑の×印付近にあり、市街地はそこから南西方向に広がっていることがわかります。

おわりに

ということで、2021年6月から1年間の活動についてお伝えしました。次回はこの続きについて投稿したいと思います。それではまた。

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