稲穂のように輝いて


 その光景のあまりの懐かしさに、僕は声をかけられなかった。
 図書館には稲穂みたいに鮮やかな光が差し込んでいた。彼女は頬杖をついて、かすかに笑みなんて浮かべながら、開いた本に目を落としている。
 手に持った黒猫のキッチンタイマーを見る。すでに20秒も経っている。
 向かい合うように座ると、彼女が瞳だけを僕に向けた。それは15年後も変わりのない彼女の癖だった。僕を見て「おや」と眉をあげると、彼女は丁寧な動きで本を閉じた。
「ずいぶん、渋くなっちゃったね。ちゃんとご飯食べてるの?」
 あまりに平然とした物言いに、僕は驚くよりも笑ってしまった。
「最近は、あんまり」
「その歳まで食事に興味がないままなの?」
「ああ、これはもう性分だろうね」
「じゃあ私の計画も失敗ってことか」
「計画?」
「私の手料理で、あなたの食生活を正すという壮大な計画があったのです」
 両手を挙げて降参する彼女に、僕はまた笑った。そんな風におどける彼女のことが、僕は大好きだったのだ。
 手に持ったままのタイマーを見る。どんな宝石よりも貴重な時間が、確実になくなっていく。
「それ、私のキッチンタイマー? ずいぶんと古ぼけちゃってまあ」
「ああ。君のお気に入りだよね。何度も修理して、ずっと大事にしてた」
「だって、あなたが初めてくれたプレゼントだからね」
「悪かった。初めての彼女の誕生日に何をあげていいか分からなかったんだ」
 二人して笑い合って、僕はその時間の尊さに泣き出しそうだった。ずっとこうしていたい気持ちを抑えて、僕は言った。
「人生で一度だけ、過去に戻ることができるようになったんだ」
「5分間、でしょ?」
「どうしてそれを……いや、そんなことはいい。僕は君に伝えに来たんだ」
 彼女は目を細めて、暖かな表情で僕を見た。
「今夜、この時代の僕は君にプロポーズをする。うつむいたまま、もごもごと聞き取れないような声だろうけど、とにかく頑張って言う。でも、君はそれを断ってくれ。遠慮はいらない」
「それは、どうして?」
 僕は手元を見た。時間はもう少なかった。早口で言う。
「僕は、君を幸せにできなかったんだ。夢は叶わなかった。ろくにお金も稼げなくて、苦労ばかりをかけた。ついに君は病気になって」僕は首を振った。「とにかく、これからの15年で、君の笑顔はすり減っていくんだ。だから、僕とは結婚しない方がいい」
 彼女は僕をじっと見つめて、今まで何度もそうしてくれたように僕に笑みを向けた。
「あなたの気持ちはすごく嬉しい。ありがとう。でも、プロポーズはね、受けるつもり。だって、ちっとも後悔してないんだもの。あなたと過ごした人生は、本当に素晴らしいものだったのよ。毎日が楽しくて仕方なかったの」
 彼女の断定的な言い方に、僕は戸惑った。それはまるで。
「未来の私が教えてくれたの。きっとあなたが来て、プロポーズを断れって言うと思うけど、って。そう、ほんの少し前にね」

 了



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