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【5月研究発表会】恋と愛の存在可能性――back number を添えて――

こんにちは。社会学部2年の はな です。

新学期を迎えてから、早くも1ヶ月が経ちました。
今、大変有り難いことにこの記事を読んでくださっている皆さまは、過ぎたる卯月をどのようにお過ごしになったのでしょうか。

世間で決まり文句のように言われる「新生活」――実際に新たな環境、新たな日常の只中に身を置き始めた方も、あるいは前年度と何ら変わらぬ日々にあった方もいらっしゃるでしょう。ちなみに私は前者で、通学時間短縮のために(以前は片道2時間程度の道のりを週4で往復していました。その精力的な姿には感服するしかありませんね。自画自賛です)、都内へと居を移しました。こうして所謂「新生活」に踏み出したという点では、私もフレッシュな新入生みたいなものです。まだまだ若々しさが漲っています。通学の際の移動距離が短くなったが故に、いささか運動不足ではありますが。

さて、アインズでは4/23~5/2を「新入生一斉入会期間」としており、(私のような“自称”ではない正真正銘の)数多くの新入生の皆さんにご入会いただきました。その数、なんと50名以上……!他大学からも、興味をもって我々アインズに加わってくださった方々がいます。
1期メンバーの端くれとしては、会員それぞれが、アインズを通して、ともに時を過ごせるような仲間を見つけてくれればと思っています。

なお、上記の入会期間後、あるいは2年生以上、他大学の方の入会も随時受け付けておりますので、ぜひお気軽に公式TwitterのDMまでご一報いただけると嬉しいです。


そして、新メンバーを迎え、初めての活動が5/3の研究発表会「恋と愛の存在可能性――back numberを添えて――」となります。

少々タイトルのインパクトが強いという声が聞こえるような気がしますが、それもそのはず、地歴同好会アインズの発表会としては初の、思想史・哲学に主眼を置いた会なのです!!

そこで以下では、発表者である私 はな が、記念すべき発表会「恋と愛の存在可能性――back numberを添えて――」(大事なことなので2回書きました)の概略を記していこうと思います。お時間のある方はこの先もご一読ください。


1古代~現代の思想家による言説の変遷 

Point
「愛」に関する体系的な思想は古代から数々みられるが、「恋」概念(日本語に訳したとき「恋」とされる概念)が主だって論じ始められるのは近代以降。

・そもそも…「恋愛」は西洋の概念(英:love、仏:amour)を表すために、明治期に作られた語(柳 1982)。
 例)中村正直(1870-71)『西国立志編』←Smiles, S. (1859). Self-Help; with Illustrations of Character and Conduct 「李嘗テ村中ノ少女ヲ見テ、深ク恋愛シ」

・今回の発表では、現代日本社会に身を置く私たちが了解している(ように感じられる)「恋」「愛」を考察する観点から、アジア(主に日本含む東アジア)とヨーロッパ・オリエント(地中海東側)における思想を考察する。なお、日本語において「恋」または「愛」と同じ/類似した文脈で用いられる思想を扱う。
・現代にいたるまでの「恋」「愛」に関する認識の変遷にはジェンダー規範(「恋愛は男女間に生じる経験であるべきだ」など)も関わってくる。この点に関しては十分な資(史)料が得られなかったため、今回はジェンダー規範を考慮から外した上で「恋」「愛」の解釈を目指す。


・「恋」「愛」という言葉・概念はそれぞれ日本の古語にも存在した(旺文社 古語辞典 第十版)。love概念流入(明治期)以前の日本古来の認識をみてみよう。

 こひ【恋】目の前にない、人や事物を慕わしく思うこと。心ひかれ、それを自分のそばにおきたいと思うこと。 ※動詞「恋ふ」

 あい【愛】❶⦅仏教語⦆強く執着すること。※仏教「渇愛」      
      ❷親子・兄弟などのいつくしみあう心。←「慈しむ」とは「大切に思いかばい守る」(広辞苑 第七版)こと。 ※儒家「孝悌」「仁」、中江藤樹「愛敬」のイメージ
      ❸男女間の愛情。←同語反復感あり。現代の言葉で古語を解説する辞書であるため、ここでの「愛情」は現代日本で了承されている「愛(情)」を指すと考えられる。すなわち、その意味合いはこの発表全体を通しての考察で明らかになろう。明治期の開国以前においても、現在と類似した意味合いで「愛」が使用されていた可能性がある。
      ❹人あしらいのよいこと。
      ❺愛玩すること。←これも同語反復感あり。愛玩とは「大切にしてかわいがること」(広辞苑 第七版)。

・あてられた漢字は訓読み。つまり、上記古語としての「こひ」「あい」は、大和言葉(漢語や外来語が入る前から日本語にあった単語)だと考えられる。ただし、「あい」の意味❶は仏教用語なので外来概念といえる。❶だけ意味のベクトルが逆(明らかに避けるべきものという位置づけ)なのもこれが一因か。

・ここで、「こひ(こふ)」と同じ読みをする言葉を思い浮かべてほしい。
 古語辞典を参照すると
 こふ…乞ふ、請ふ
本来、漢字流入以前の(国ではなく地域としての)日本の言葉は、音のみによって世界を分節していた。=音が同じであれば同じ概念を表していた。言葉を文字にする手段(漢字)がなかった。
つまり、漢字を付与されたことで同音異義語になった上記の語であるが、それらは元々同じ概念だった。なお、「あい」は「あひ」であれば、ハ行活用の動詞を手がかりに「合ふ(合ひ)」「会ふ(会ひ)」「逢ふ(逢ひ)」等々、同音語が様々見つかる。しかし、現代人が古文を読むとき揃って「い」と発音する「い」と「ひ」は、古代では別様に発音されていたため、「あい」は「あひ」とは別の概念といえる。


同音異義語の意味を考慮して「こい【恋】」「あい【愛】」の指すところをまとめると、

 こひ=ある対象を自分の思うままに実現させ、(物理的or精神的に)自らの近くにおきたいと願う気持ち。その願いは「こふ」時点では実現していない。
 あい=ぴったりと寄り添い、離れようとしない気持ち

古来の「こひ」「あい」は我々にも理解できるものの、「恋愛」に対する現代のイメージよりは対象が広い。=人ではなく物にも向けられる「心」「感情」。
以上のような日本古来の「こひ」「あい」を頭の片隅において、まずはアジア古代〜近世の思想を扱う。



アジア古代~近世(19世紀後半からの欧米列強進出し始めまで)


BC 551ごろ~BC 479 孔子
・孝悌=親への孝行+年長者への尊敬。家族の間に自然に生まれる心情。
・仁=孝悌を家族以外にも、全ての人へ広げたもの。

BC 470ごろ~BC 390ごろ 墨子
兼愛=自他を区別せず互いに支え合う。無差別平等。

BC 463ごろ~BC 383ごろ ブッダ
渇愛=対象のものごとに、執着すること。
・諸行無常(万物は変化しとどまらない)、諸法無我(万物には独立不変の実体というものはない)という真理に昏く、何らかの対象にかかずらう→苦しみの元
・日本古語「あい」❶の意味と同じ。
・涅槃寂静(苦しみから解放された真の安らぎの境地)に至るにあたり、障壁となる。
→避けるべきもの

・日本古語「あい」❷❺により近い意味の教えとしては以下のようなものがある
 慈悲=生きとし生けるものを慈しみ憐れむ心←縁起説(万物は相互依存の関係にある)
 慈=与楽、悲=抜苦


↓↓以上のような古代の思想を土台に日本で芽生えた思想

1608~1648 中江藤樹
・日本陽明学の祖。
・陽明学…中国で明代に成立。実践を重視した儒教の学派。心即理、知行合一など。
愛敬(あいぎょう)=実際の人間関係において人に親しみ、目上の人を敬い、目下の人を侮らない。誠実さ。

1627~1705 伊藤仁斎
・古義学の祖=『論語』『孟子』を、朱子学や陽明学の解釈に頼らず直接本文に即して精読し、本来の意味を明らかにする。
仁愛=生き生きとした日常生活の中で、互いに親しみ合う関係。誠(真実無為)の心が根底にある。




ヨーロッパ・オリエント古代~近世(14世紀まで)


BC 470ごろ~BC 399 ソクラテス
知Φιλοσοφία=無知を自覚し、真の知を求める。

BC 427~BC 347 プラトン
エロースἜρως=本来は、ギリシア神話に登場する恋心と性愛を司る神の名。プラトンは、イデア(永遠不変の本質、理性によってのみとらえられる真実在)界への思慕の情、と定義した。完全なるもの(イデア、真善美)という高みを目指す憧れ・哲学的衝動。

★ディオティマ @プラトン『饗宴』
・アテナイの哲学者、巫女。
プラトニック・ラブの礎となる思想(人間の愛情の正しい使い方として)
…他者の美しさの認知→普遍的美の賞賛→美の源泉である神性の考察→神性への愛

BC 384~BC 322 アリストテレス
・ポリスの結合原理(ポリス構成員の結びつきを強めるには何が必要か)
友愛φιλíα=相互の幸福を願い合う親しみの情。対等な関係。

BC 4~AD 30ごろ ナザレのイエス
・ユダヤ教「裁きの神」から「愛の神」へ。
・神の愛アガペー=無差別平等、無償。父なる神からの恵み。
 
 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。『マタイによる福音書』5章

・二つの戒め
 神への愛=心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。『マルコによる福音書』22章
 隣人愛=隣人を自分のように愛しなさい。『マルコによる福音書』22章

この地上に、神は具体的な姿をとって存在していない。そこで神は「私を愛することは隣人を愛することだ」と告げる。隣人とは、時々刻々出会う人びと全員のこと。

・黄金律=「自分が他人にしてもらいたいと思うことを他人にしなさい」


★3種の愛のベクトルの違い
エロース…上昇する。完全なるものへの憧れ。
フィリア…相互的。相手の幸せを願い合う。対等な関係にある人々の間で成立する。
アガペー…神から無差別平等に賜る。絶対的存在から降り注がれる恵み。

※キリスト教が日本に伝来した当時、キリスト教における愛は「ご大切」と訳された。日本の「あい」とは異なる観念であることの示唆。
   
  


 

ヨーロッパ近現代


・ヨーロッパの所謂「近代化」の中で、哲学も体系化・学術化が進んだ。よって、近代以降は「ヨーロッパとその他の地域」という区分で考察する。

1623~1662 仏 パスカル
・この世界の「三つの秩序」…宗教戦争等が続く混乱の時代、理性の限界を感じ、キリスト教信仰を説いた。
 身体(物体)の秩序=権力・富を追求する人が属する。
 精神の秩序=学問にはげむ人が属する。
 の秩序=信仰と愛に生きる人が属する。

1783~1842 仏 スタンダール
→「恋」「愛」の物質化(システムとして分析対象になる)

『恋愛論』1822年初版 ※坂口安吾『恋愛論』
・恋愛の4類型
 情熱恋愛=「恋の7段階」に沿ったもの。あらゆる利害を超える。
 趣味恋愛=駆け引きを楽しむ。利害感情優先。
 肉体的恋愛=快楽を楽しむ。肉体関係のみ。
 虚栄恋愛=社会的地位を高めるために相手から好かれようとする。捨てられると虚栄心が傷つけられ、悲哀を感じる→その悲哀は自分が相手に対する情熱をもっているから生じるのだ、と思い込む。

・恋の7段階
 ❶感嘆
  自分独自の仕方で相手の美点を見出し、それを相手の本質として賞美する。何が美=快楽となるかは人それぞれ。

 ❷……したら、どんなにいいだろう
  肉体的快楽に対する感度が最も高い状態。この段階に進む際に醜(↔美)が妨げになってはならない。ただし、ひとたび恋が始まれば(=❺結晶作用が生じれば)、恋する相手のどんな汚点も気にならなくなる。「人がある女性に専心しはじめたら、もう彼は彼女を彼女の本当の姿としては見ず、彼女がこうあってくれればよいという姿で見る」(粕谷 1987: 30)。美の役割とは恋を引き出すこと。

 ❸希望
  恋が実るかもしれないという可能性を感じられなければ、この段階で挫折してしまう。

 ❹恋が生まれる
  愛し合える人が存在することをあらゆる感覚によって感じ、快楽をおぼえる(=恋)。この段階で相手を知りすぎる/相手を軽蔑する/相手から軽蔑されると、❺結晶作用が妨げられてしまう。→「恋」と「愛」の混在(日本語に訳した場合)

 ❺第一の結晶作用
  相手が自分を愛している、と自信がもてるときにこの段階へ進む。「頭にうかぶ全てのことから、愛する相手が新しい美点を持つという発見をひきだす精神のはたらき」(粕谷 1987: 27-8)。
  ※「ザルツブルクの小枝」:ザルツブルクの塩坑で、廃坑へ冬枯れで葉の落ちた木の枝を投げ込み、数か月後に出してみると、その枝はキラキラとした結晶に覆われており、元の枯れ枝は見えない。=「対象を想像上の魅力でおおう」(粕谷 1987: 31)。

 ❻疑惑
  今までの幸福を疑いはじめ、その確かな保証が欲しいと思うようになる。

 ❼第二の結晶作用
  「あの人は本当に自分を愛しているのだろうか」「やはりあの人は自分を愛している」と葛藤を繰り返したのち、後者を確信する。恋の持続が確実になる。

  
★「親友に情熱恋愛をうちあけることほど敬意を欠き、すぐに罰が当る行為はない。その親友は、あなたの言っていることが本当である場合、あなたが彼の千倍もの快楽を味わっていること、あなたの快楽からすると彼の快楽などとるにたらぬものに見えることを知っていることになるからだ」(粕谷 1987: 32)。…「恋」「愛」の個人化



1883~1969 独 ヤスパース
有神論的実存主義者
愛しながらの戦い=実存(現実存在)に目覚めた者同士の関わり。理性と愛をもって真剣に問いかけ関わり合う。個人として対立し合いながらも信頼し合う。→理性と愛との両立
・「君が君でないと私は自分自身になり得ない」




日本近現代


1868~1894 日 北村透谷
・ロマン主義=自由な感情や想像力を強調し、自我や個性を尊重する文学運動。
・自由民権運動に参加するも、弾圧され挫折。
・実世界(現実の世界)↔想世界(精神の世界)
・自己は政治的な世界(実世界)において実現されるのではなく、具体的現実を離れ、想世界の充実を通して内面的に確立される。恋愛は想世界を充実させるところのもの。「人生の秘鑰(=秘密を解き明かす手段)」、つまり、内面を生き生きとさせ方向づけるものだ。

1906~1955 日 坂口安吾
『恋愛論』1947発表 ※スタンダール『恋愛論』の1世紀以上後
・恋愛=言葉でも雰囲気でもなく、ただ、「すきだ」ということ。永遠の恋など存在しないが、恋愛をしなければ「人生自体がなくなるようなもの」(坂口 2008: 321)。
・恋が上手くいかず孤独を感じたとしても、その「孤独」は人の魂を満たす。
・恋愛は「人生の花」である(坂口 2008: 327)。 



Summary 


・元来、日本では「ある対象を自分の近くにおきたいと願う気持ち」を「恋」、「寄り添って離れようとしない気持ち」を「愛」と呼んでいた。「愛」は、江戸時代において儒学などの影響もあり「人に親しむこと、誠意」という意味合いになった。他方、西洋では古代に起源をもち質の異なる、大きく分けて3種の愛(エロース、フィリア、アガペー)が存在し、なかんずく神から注がれる恵みとしてのアガペーは、後世までキリスト教信仰と結びついた「愛」として受け継がれている。しかし、日本であれ西洋であれ、古代に起源をもつこれらの概念は、性的・肉体的色合いが薄く、人間全般、場合によっては物まで対象に含み、その対象を大切に扱おうとする心持ちに近い。

・近代になり、スタンダールは日本語で「恋」とも「愛」とも捉えられるような『恋愛論』を発表した(日本語に訳されるところの「恋」が思想中に顕在化した)。彼をはじめとする近代以降の西洋思想家らの言説において「(恋)愛」はそれ以前のloveに比して人格的な相互依存の色合いを濃厚にし、(恋)愛する人の幸福に資する点が強調されている。ゆえに、これが近代以降のlove・「(恋)愛」・「恋」の特徴といえる可能性がある。またこの『恋愛論』の誕生は「恋」「愛」の物質化や個人化と並行している。※近代社会では「幸福=個人の領分」「身体(性)=物質的」とされることがままある。

・love概念流入以降の日本では「恋愛」を情熱・自己・自分の人生を全うすることになぞらえ、「人間らしさ」とする言説がみられる。「恋」「愛」はlove概念と結びつき、「恋」「愛」が別個の概念として成り立っていない西欧と同様、「恋愛」という言葉で一緒くたに語られる場面が散見される。




2 back numberによる恋愛描写

Point
日本において恋愛を描いた楽曲が広く聴かれているという事実は、「恋愛」が、実ろうとそうでなかろうと、肯定的な印象をもたれていると示唆する。

『恋』
作詞・作曲:清水依与吏

毎日君が何を願って誰を想っているのかも
結局大事なとこは何も知らずに
それでもずっとほんとにずっと

→「ずっと」:離れようとしない気持ち=「あい」↔曲名は『恋』。恋と愛の混在。/「第二の結晶作用」前の葛藤ともとれる。個人の抱く感情としての孤独の描写。

『黄色』
作詞・作曲:清水依与吏

交差点で君を見つけたときに 
目があった瞬間で時間が止まる 
信号は青に変わり 誰かの笑う声がした 
まだ私は動けないでいる 
これ以上心に君が溢れてしまえば
息ができなくなってしまう 
今はガラスの蓋を閉めて 

→理性とは相容れない想い、という含意↔ヤスパース

『わたがし』
作詞・作曲:清水依与吏

水色にはなびらの浴衣が この世で一番
似合うのはたぶん君だと思う
よく誘えた 泣きそうだ
夏祭りの最後の日 わたがしを口で溶かす君は
わたがしになりたい僕に言う 楽しいねって
僕はうなずくだけで 気の利いた言葉も 出てきやしない
君の隣歩く事に 慣れてない自分が 恥ずかしくて
想いがあふれたらどうやって
どんなきっかけタイミングで
手を繋いだらいいんだろう
どう見ても柔らかい君の手を
どんな強さでつかんで
どんな顔で見つめればいいの


→スタンダール「ザルツブルクの小枝」の比喩に近い(好きな人の特徴はなんでも素敵に見える)/「想い」は「あふれる」:理性と対立?↔ヤスパース

『瞬き』
作詞・作曲:清水依与吏

幸せとは 星が降る夜と眩しい朝が
繰り返すようなものじゃなく
大切な人に降りかかった雨に傘を差せる事だ
何の為に生きて行くのか
答えなんて無くていいよ
会いたい人と必要なものを少し守れたら
背伸びもへりくだりもせずに
僕のそのままで愛しい気持ちを歌えたなら
幸せとは 星が降る夜と眩しい朝が
繰り返すようなものじゃなく
大切な人に降りかかった雨に傘を差せる事だ
瞬きもせずに目を凝らしても見付かる類のものじゃない
だからそばにいて欲しいんだ

→愛(あとの歌詞に「愛しい」が出てくる)=(現実世界での)幸せ、と捉えるのは近現代的考え。/プラトニックな表現。/「そばにいてほしい」:古語「こひ」に共通。「恋」「愛」概念の混在。


Summary


・「恋愛」は、実ろうとそうでなかろうと、肯定的な印象、日常生活で経験して損はないものという印象をもたれている。←明治期以降のロマン主義的開放性。
・日本古来の「こひ」「あい」とlove概念との混在。
・恋愛は理性と矛盾する。/プラトニック・ラブが理想化されうる。
→動物性・肉体性の忌避




3 問いに対する一考察(現代日本における「恋」「愛」)

 

・現在、loveに「恋愛」という訳語があてられたため、恋と愛は類似した概念として扱われる。

・「恋愛」に関しては物ではなく人のみを対象とするややロマンチック・情熱的な様相が呈されながらも、日本古来の「こひ」(ある対象を自らの近くにおきたいと願う気持ち)、「あい」(寄り添い、離れまいという気持ち)観念は日本社会に根付いている(我々も理解できる観念)。

・敢えて「恋」と「愛」の違いを導出するならば、スタンダール『恋愛論』の日本語訳において両者が共に用いられている点にも注目して(スタンダールの言説の中に、現代日本社会で「恋」とみなされる考えが登場したということ)、以下のように考察できよう。
 「恋」=「こひ」+快楽
 「愛」=「あい」

・「恋」「愛」は目に見える実体ではない。しかし、日常に悲哀だけでなく彩りももたらすという人々の認識がある(=自己の幸福に資する、利益あるものとしての「恋愛」)。その点で、我々の生活に根ざした観念としては、存在するといえよう。



文献

粕谷雄一、1987、「スタンダール『恋愛論』における「恋人の長所」の実在性をめぐって」『Gallia』26: 27-35.

坂口安吾、2008、『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』岩波書店.

スタンダール、大岡 昇平訳、1970、『恋愛論』新潮社.

山根宏、2008、「「恋愛」をめぐって―明治20年代のセクシュアリティ」『立命館言語文化研究』19(4): 315-32.

柳父 章、1982、『翻訳語成立事情』岩波書店.




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