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#まいにちチクショー に関する哲学的考察 ——コウメ太夫、哲学者コウ・メダユー両氏へ敬意を添えて——

今日は2月22日。「222(にゃんにゃんにゃん)」ということで「猫の日」だそうですね。でもヘッダーは鳥の写真です。
何を隠そうこの鳥、国立市を鎮座地とする谷保天満宮境内に棲むニワトリでして……現在受験シーズンなのだから学問の神様・菅原道真にまつわるモチーフを、ということで手持ちの写真の中からヘッダーに採用しました。
一橋大学から徒歩30分弱で訪れられるほどの近さにある故、一橋生の間で取り立てて意識される機会は少ないように思われますが、
谷保天満宮は「天満宮」である以上菅原道真を祭神としているのですね。

ちなみに、この社でニワトリが生息している理由については、地元民に訊いたりググったり文献を漁ってみたりしても定かでなかったため割愛します……。

さて、前置きが長くなってしまいました(非常に申し訳ないと思っているので太字にしています。謝罪の気持ち、伝われ)。
申し遅れましたが私、アインズ1期の はな と申します。
つまり、ヘッダーの画像は taken by はな。これはいわゆる誰得情報です。

……何より先に掲載すべきなのは目次ですね(自戒)!!
以下、本記事の章立てとなっております。5分もあれば優に読了可能な駄文ですが、各見出しは該当箇所へのリンクとなっておりますので、気になる部分だけでも摘まみ食い(読み)していただければ一介の物書きとしては至極幸いでございます。

1. 自己紹介と本記事の概要

あなたは何者?

先程も申し上げた通り、私 はな はアインズ1期。また、一橋大学社会学部2年生でもあります。来月下旬にはゼミナール選考が始まるらしいです。入りたいゼミの教授と面接でお話しできる機会をもてるなんて、楽しみでなりません。楽しみでなりませんよ。本当に。選考なんて無ければいいのに。本音が出てしまいました。

実は私、アインズ会員としてnoteを書くのは3回目です。
ただ、直近で執筆した記事が昨年5月公開分であり随分と間隔が開いてしまいました。したがって、一応ここで自己紹介パートを挟んでおります。

※参考までに以前のnoteはこちら↓↓


上の2記事をちらっと見ていただければ分かる通り、私が興味関心をもっている地歴関連の分野は思想史。アインズの会誌『桔梗』(現時点では年2回=6月と11月に発行)でも、近現代思想の観点からTwitterユーザーの心理を論じたり何だりしました。

ちなみに、『桔梗』のオンライン版(pdf)は現在もBOOTHで販売中。以下のリンクから購入可能です(宣伝)。


本記事について

思想史の知識を深めたい!そしてその知識をアウトプットしたい!!と常日頃から思っている私ではありますが、とりわけ熱をもって取り組んでいる領域が存在します。
それは、「現代社会の営みを思想家たちの言説に依拠して分析する」こと。なお、ここでの「思想家」という語は、思想史に名を刻んできた、いわゆる”歴史上の”人物を指します。
こういった自らの関心が、少々奇天烈な今回のタイトル

#まいにちチクショー に関する哲学的考察 
——コウメ太夫、哲学者コウ・メダユー両氏へ敬意を添えて——

へと繋がりました。

#まいにちチクショー とは、お笑い芸人・コウメ太夫(@dayukoume )さんが1日に2回程度、「~と思ったら、~でした、チクショー!」というお決まりのネタをTwitterで投稿する際に添えられるハッシュタグです。
コウメ太夫という芸人さんの存在とその芸風に関しては、ご存じの方が多いでしょう。

しかし、【哲学者コウ・メダユー】(@koume_philo)さんについては如何でしょうか。その名を耳にしたことがなかったという方も、一定数いらっしゃるのではと思います。私自身、哲学者コウ・メダユーさん(以下、「コウ」さんと表記)を知ったのは、この記事を執筆し始めた前日のことでした。

コウさんは、#まいにちチクショー が付されたコウメ太夫さんのネタ(ツイート)に対し、引用ツイートの形で哲学的・社会学的解釈を施すツイッタラー。
その一例は次の通り。

突如として、Twitterのタイムライン上に流れ来たこのツイート。私の眼前に姿を現したこの流麗な筆致。「noteを書くなら、これをテーマにしよう」――咄嗟に、そう思ったのです。
お笑い芸人のネタに対する哲学的・社会学的解釈――私の関心領域であるところの、「現代社会の営みを思想家たちの言説に依拠して分析する」ことと全くもって同じではありませんか!「お笑い芸人のネタ」というのも、社会のいち成員が為す行いであるからして、「現代社会の営み」の外延なのです。

……という訳で本記事は、コウさんによる数々の議論の内から1点を厳選して扱います。誠に勝手ながら、コウさんの解釈に対する私のコメント哲学的連想を加えていく所存です。


2. #まいにちチクショー 論考

彼女は耳かき?

今回取り上げる #まいにちチクショー ネタとコウさんによる解説はこちら。

ここでコウさんが参照しているのは、18世紀に活躍したドイツの思想家イマヌエル・カントによる言説。

カントと言えば、人間の理性が有する認識能力の限界を吟味した「批判哲学」。彼の述べる「批判」とは、”検討すること”と同義です。この点は、criticismが「非難」のみならず「批評する(≒critique)」と日本語に訳されることからも理解しやすいでしょう――なぜなら、カントによって執筆活動に使用された言語がドイツ語だから。
現在用いられているドイツ語と英語は、共に「西ゲルマン語」へ分類されます(浜崎 1966)。換言すれば、両者は共通の祖語をもち、そのようなゲルマン語派の中でも「西ゲルマン語」という、"体系"の類似した言語群に含まれるのです。

そして、この”体系”に関して、とあるテーゼが存在します。
構造言語学の開拓者であるフェルディナン・ド・ソシュールによれば、言語システムは「差異の"体系"」なのであります(ソシュール 2016)。すなわち、ある言葉によって指し示される実体(=ある言葉の”意味”)は言語システム誕生以前から存在するのではなく、
特定の音によって切り取られる「項」同士の対立関係が創出されて初めて、意味体系(=言語体系)が成立するのです(ソシュール 2016)。

この説明だけでは何だか小難しいですね。書いている方もよく分からなくなってきます。
ここで言う「項」は、任意の単語のことだと解釈して差し支えないと考えられます。したがって身近な例を挙げると、日本語の「あ」(五十音最初の音)はそれ以外(「いうえおかきくけこ……」)と異なる音を有するが故に「五十音最初の音」として話者に認識されるということです。ですから、明瞭に「あ」が発音されなかったとしても、聞き手が「『いうえおかきくけこ(以下略)』とは違う発音だな」と判断すれば、その音は「あ」として意味付けされるでしょう。

以上をまとめると、
言語体系の類似とは、音による世界の切り取り方の類似です。その意味で、上記において触れたドイツ語と英語とは差異の創り出し方が似ており、故に日本語への翻訳にも共通性が見出されるという訳です。


随分と前置きが長くなってしまいました。しかし肝要なのは、言葉の指示対象より先に言葉の「音」がある、というソシュール言語学の考え方が「言語論的転回」と呼ばれる点です(丹藤 2010)。
なんとこの「言語論的転回」、本章冒頭でコウさんが引いていたカントに由来する言い回しなのです。

カントは批判哲学の中で、認識という行いは精神と独立に存在する対象(事物)に従って為されるのではなく、対象こそが認識に従う、と述べています(カント 1961a, b, 1962)。この理論、コペルニクスによる天文学説上の発想の大転換に準え、認識の「コペルニクス的転回」と呼ばれているのです(犬竹 2017)。

認識作用に先行して存在する独立の事物を、人間が知覚する訳ではない。人の認識枠組みに依拠して、世界に意味が与えられ、「事物」が把握されるのだ――これは、カントとソシュールの理論双方に共通する特色ですね。
よって、カントのテーゼに準えてソシュールのそれは「言語論的”転回”」と呼ばれるのです。

さて、上述のようにカントは批判哲学において理論理性(世界認識を行う理性)を吟味しました。ただし、彼の議論はそこに留まりません。彼は、道徳的判断を司る実践理性に着目します。この実践理性に関する考察こそ、コウさんのツイート中で言及されていたものです。

道徳的行為とは、理性(実践理性)を働かせて道徳法則に従う自律的営為、すなわち、「欲望にかられた本能的衝動」という自然界の因果から解放されているという意味で「自由」なものだ――カントはこう主張しました(カント 1979)。

なお、「道徳法則」は「~せよ」という無条件の定言命法として定められます(カント 1979)。つまり、「他人から信頼されたいならば、嘘をつくな」といった文言は定言命法に含まれません。「~ならば、~せよ」の形は仮言命法と呼ばれます。カントによれば、仮言命法は「~ならば」という目的が設定されている時点で何らかの欲望に基づいているため、道徳的でありません(カント 1979)。

上記の通り、カントにとって道徳的な人間とは、実践理性を駆使して自律した生を送る主体です。自律した人間存在であるからこそ、彼/彼女の人格(=理性的主体性)は尊重され、「手段」の対極であるところの「目的」として扱われねばならない、とカントは説いたのです(カント 1979)。

人を手段として見る、という点は想像のつく方も多いと思いますが、コウメ太夫さんのネタ(とコウさんの解説)から例を挙げれば、

都合の良い「耳かき要員」として恋人を扱う

ということになります。「耳かきして~♡」とおねだりするばかりで、自分からはgiveしない、あるいは何か恋人に施したとしても、それは相手からの見返り(耳かきの頻度を増やしてもらうとか)を求めるが故である、といった事例です。

……もっと無難な例としては、学校で「ぼっち」になりたくないためクラスメイトに優しく接して友達を作る場面があるでしょうか。この場合、「クラスメイト/友達」は、自分が学校共同体で孤立しないための手段でしかありません。

以上、コウメ太夫さんのネタに対するコウさんの分析を、いち思想史erである私なりに解説し、少々自由に哲学的連想(ソシュール言語学周辺)も加えてみました。いかがでしたでしょうか。

3. おわりに

芸人さんのネタを思想史の観点から分析する営みは、大変興味深いものです。実は私バイきんぐ小峠英二さんのファンでして、彼の名台詞(?)「なんて日だ!」に対する哲学的考察を、会誌『桔梗』への寄稿やアインズnoteで多少試行しています。今回コウさんの鮮やかな分析と出会い、そしてささやかながら1記事をしたためたことにより、「なんて日だ!」に関する思索を深めたい野望がより一層、めらめらと烈火のごとく燃え盛っております。

また、本来ならコウメ太夫さんのネタを複数取り上げ、かつ「彼女は耳かき?」ネタに対しても自分なりの解釈を更に加えたいところでした。人格との向き合い方という面では、カントと時代は異なるものの、ドイツ語圏にちなみフランクフルト学派の言説へも触れることが可能だと考えられます。
なにぶん、手持ちの自由時間が3時間半ほどしかなく、このような駄文を世に放出することとなってしまいました(言い訳)。どうかお許しを……とにかく少しでも良いから、コウメ太夫さんとコウさんに敬意を表した論考を残したかったんです……(弁明)。

とりとめのない文章ではありますが、少しでも目を通してくださった方がいること、思想史と哲学的考察に興味を抱いてくださった方がいることを期待し、ここで筆を置きます。



筆で書いてると思ったら~、

キーボードで入力してました~。

チクショー!!




参考文献

フェルディナン・ド・ソシュール(町田健訳)、2016、『新訳 ソシュール 一般言語学講義』研究社。
浜崎長寿、1966、「文法上の性」『人文研究』17(8): 631-50。
犬竹正幸、2017、「カントの批判哲学とパラダイム論」『拓殖大学論集 人文・自然・人間科学研究』38: 1-15。
カント(篠田英雄訳)、1961a、『純粋理性批判 上』岩波書店。
――――(篠田英雄訳)、1961b、『純粋理性批判 中』岩波書店。
――――(篠田英雄訳)、1962、『純粋理性批判 下』岩波書店。
――――(波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳)1979、『実践理性批判』岩波書店。
丹藤博文、2010、「言語論的転回としての文学の読み」『愛知教育大学研究報告 人文・社会科学編』59: 1-5。



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