透明読書人間

私には昔から文章について第六感があった。

こんなことを書けば大人は納得し、感心し、涙し、ここにいる子どもの中で一番大人だと認めてくれるだろうと確信して作文などを書いていた。

その確信はほとんど当たった。何を書いてもいつも私が選ばれた。賞状を何十枚ももらったし、皆の前でよく朗読され、ついには弟の読書感想文を代わりに書いてやったらそれも何かの賞に選ばれてしまった。

文章が上手いやつはどこか人格がおかしいと相場が決まっている。


文章を書く時の私の、まるで大人がわざと子供らしさを演出しておちょくっているような余裕ありげな口調とは正反対に、普段生活している時の私はいつもかなり適当に世界を認識していて、無味乾燥な人間だった。

鏡を見て、なんだこのつまらない顔はと思っていた。自分が人のことを評価しているように、自分もまた他者に評価されているなんて微塵も考えたことがなかった。幼少期の写真を見ても、自分の殻に閉じこもっているような信じられないくらいの無表情。

そして私には最悪な最悪な短所があった。それは口が悪いということだ。すぐ人に死ねとかバカとか言っていて、よく大人に信じられない剣幕で怒られたりしていた。何をそんなに怒ってるのか本当にわからなくてずっと混乱していた。

そう、私は読書のしすぎて読者になってしまったのだ。

読者は無表情で相手(本)の世界にズカズカ踏み込んで、読み荒らして、死ねとかバカとか思っても、こちらの行為によって本の中の人たちを怒らせたり泣かせることはできない。


母親は仕事でいつも忙しく、特に中間子の私には構ってくれた記憶が全然ない。基本ほっとかれていたが、家の中には本が沢山あったし、よく図書館に連れて行かれた。本がすごく好きだったかは思い出せない。とにかく目の前にあるものは家族でも友達でもなく本だった。私は人見知りだった。友達一人作るために話しかけることはできないが、本一冊を手に取って買うことはできた。

いつしか自分の今ここに居る世界もまた本だと思い込んでしまったのだと思う。よく自由帳に友達や家族を勝手にキャラクター化してお話を書いていた。

だから、自分の母親だけ来てくれなかった二分の一成人式で「お母さんいつもありがとう」という手紙を読むこともできた。私の虚空に向けて読んだ手紙で何人か他の子の親が泣いた。頭の中のストーリーの中では全てが感動フィナーレなので、何も悲しくはなかった。


自分はずっと透明だと思ってたから、人に何を言っても聞こえてるはずはないと思っていた。わりと長いことそのままで来たけど、最近ようやく気づいた。私は透明じゃないらしい。

私が不快だと思っていたキャラクターの些細なバグこそ人間がちゃんと生きている証で、私がその都度憧れてた誰かっぽく適当に演じてきた人生ってちゃんと他人から見えてたんだ。もしかしたらまだ納得しきっていなくて、読者かもしれないと思う場面がある。このまま下手したら一生読者のままなんじゃないか。

子どもに本を読ませろという話をよく聞くけど、最初にこの世界が本物であることを認識しないうちに本を与えないと、私のような自分を透明だと勘違いしたおかしな読者人間が爆誕してしまうよ。


おしまい



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