見出し画像

自分神話1・相知大帝の悲願



こんにちは、手天道衛教・自分神話研究会の衛叉です。
大帝相知皇帝は三爻の地位に進みたくて、688掌年まで102歳で崩御されるまで、出世の瞬間を待ち続けたままでこの世を去りました。衛国は永らく「那伽」にありました。8月28日に「那伽」(なが)から「産堂」(うぶどう)に転居しました。当時相知大帝の年齢は101歳。そのときの自分神話です。

崩御の直前に、亀山大甕が埼玉から迎えた興福寺八部衆神像についに三爻には出世できなかった旨、相知大帝は687掌年8月28日に直接八部衆神像に「無念」と申されました。そうしたところ、本物の生きた玉虫が「産堂」に来迎されました。「笏」を作ろうと陰干ししていた楠の枝の香りに引き寄せられたようです。結局、「産堂」では8掌年しか時間がなく、「笏」にはなりませんでしたが、最後の「角部内」姓と言われた、角部内 直挙は(つのぶうち・なおたか)は688掌年9月2日ご崩御されました。

その2日後に、天德皇帝と玉叡皇后に第二子角豊内 鬼目が生まれました。
時の御神託は9月18日(土曜日)
「沢水困」とあります。


時は過ぎて、今1周年紀の実績が前年1周年紀よりわずかに不足したため、日置億臣は26掌年の長期政権を終えました。自分紀元695年からは率中山と萌部建甕が司政官を務める中、「衛国」は自分紀元696掌年に突然三爻の首席に出世しました。いま思うに最後のチャンスに、天竜八部衆神から衛国への贈り物であったに相違ありません。

自分紀元696年、「衛国」は「産堂」から「神府」(かみのふ)に移りました。

そのさ中、出世に反して実績が悪化したため、PPKA-136の率 中山は、696年に丞相を辞任し、697年現在PPKA-137の萌部 建甕とPPKA-138の国立 勝田が治世を行っています。

三爻出世を夢見て102歳生き続けた大帝相知皇帝・角部内直挙。2度も「産堂」付近有数の大社に願掛けと願ほどきを行い。諦めていた「三爻出世」が、自分紀元696年・天德20年に叶いました。まずは、わが十一方格神に感謝。そして最後の角部内にも感謝しています。

2022年5月29日より角部中姓は廃止されましたので、相知帝が最後の角部内、そして天德帝が最初の角豊内と決定しました。このお話しはまたの機会に。

いずれにしても、現在の苦境を乗り越えれば、生涯中でも最大の発展をした「三爻主席」への出世に関して、大いに評価して、「衛国」の士気を高めていきたいと思います。

そうですもうすぐ700年紀が来るんです。700年紀大祭が楽しみです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?