3回泣いた、社会の不条理が悔しくて

自分のことで泣くことは、多くない。なぜならそれは、自分次第で変えられるから。

自分の感情をコントロールするために、感情を外に出す人と出さない人がいるけれど、私は後者だと思う。元来の性格もあるし、役割がそうしたのかもしれない。ある程度の感情の浮き沈みは、自分で完結しようと試みる。

だけど、私は今年三回泣いた。社会の不条理が悔しくて。感情をコントロールできなくて、ただ一人で泣いた。

(ここから先、暴力に関するセンシティブな内容があります。PTSDなどお持ちの方はご自身の状況を鑑みご判断して読み進めてください)

3回泣いた

一度目は、2023年6月頃にブルキナの北部地方のカルマ村で、「軍服を着た」者が約150人の市民を殺害したというニュースを読んだ時。

男性も女性も子どもも死んでいた。大人が子どもを石で殺そうとする瞬間もあった。個人に対してではなく、人間という存在に絶望した。でも、その憤りの矛先がなくて、一人で泣いた。

※2023/12/2以降Le Mondeはブルキナ国内からはアクセスできなくなりました

二度目は、2023年12月にブルキナのジボで市民が殺害されたという写真を見た時。そして三度目は、2023年12月にブルキナのファダで市民が殺害されたという写真を見た時。

二度目も三度目も、また男性も女性も子どもも死んでいた。赤ちゃんをおんぶする母親もいた。またしても、個人に対してではなく、人間という存在に絶望した。でも、その憤りの矛先がなくて、一人で泣いた。

殺害したのは、誰かはわからない。今もこれからも、わからない。わかっても、きっと公にはならない。そんなことは、もういい。でも、どうして罪のない人を傷つけるんだ。そんなの、理不尽すぎるじゃないか。

そんな現実が、遠い世界のどこかの国なんかじゃなくて、自分が生きている国で起きている。自分が生きる時代に起きている。つまり、自分の社会に起きている。

世界の不条理がいつも隣りにある。直視したら苦しくなるほど近くにある。苦しすぎて、自分を見失いそうになる。感情の浮き沈みもなく、無になりたいと願う。でも無になると、人間じゃなくなってしまう。

だから、人間に絶望しても、人間でありたい、と心のどこかで願う。

そしていつも、ひとしきり泣いたあの時、ふと「じゃあ、どうするか?」と考えてみる。泣いたって、社会は変わらないじゃないか、と。

で、どうするか?

結局出る答えは、社会起業家として、自分にできることする。以上。

対峙する社会課題が大きすぎる。自分のインパクトが小さすぎる。だから、できることをする。それだけしかない。

時には、泣いて、社会に絶望して、人間に絶望する。それでも、そんな絶望をも全部抱きしめて、希望に変える。それが私の使命だと信じて。

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