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〈評論〉磔刑のキリスト、あるいは目玉おやじ―『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』における犠牲と父性― 第5回(全8回)

【各回共通の注記】
・映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』と関連の『ゲゲゲの鬼太郎』テレビアニメについて、クライマックスや謎解き、結末を含む内容への詳細な言及があります。問題のない方のみお読みください。
・本文約22,400字。
・上記作品を知らない方にもわかるように書いています。
・書籍著者名の敬称略。
・イメージ写真出典:写真AC(https://www.photo-ac.com/)より「夜桜と月」撮影者: kosumiさん

桜の多面的イメージと「妖樹ようじゅざくら」(2)

 血桜のシーンに先立ち、『鬼太郎誕生』では、時貞の長女(時貞没後は龍賀家の実質的な長)が一族の行為を正当化する場面がある。長女は鬼太郎の父を「化け物」と呼ぶ一方で、「地下に潜ってモグラ同然だった幽霊族、その血に価値を見出して、居場所を与えてやってきたのは我ら龍賀一族なのですよ」と述べる。(「モグラ」とは、水木しげるが食うや食わずの貧しい自分の生活を表現した言葉という。)妻がその目的で囚われていると知り、激怒する鬼太郎の父を暴力で沈黙させた後、長女は水木に向かい、龍賀一族の「崇高な義務」について、宗教じみた陶酔とともに語り始める。日清戦争以来、戦場の兵士の強化に使われてきた「M」を企業の労働者に使わせることで、「この国をあの屈辱的な敗戦から立ち上がらせ、再び世界に君臨させる」「大義のための犠牲となるなら、幽霊族も本望でしょう」と語る長女が、水木の目には、南方で彼の部隊に玉砕を強いた上官と重なる。「お前たちは大義のために死ぬるのだ。本望だと思え」という上官の言葉がよみがえるのだ。
 この一連の台詞が想起させるのは、終戦までの「大日本帝国臣民」および戦後の「日本国民」概念に含まれる者と含まれない者についての線引きを、権力層がその時々の都合に合わせて操作してきたという事実である。近代国民国家は、特定の地理的・法的境界線の内側にある人々を学校教育・軍隊・税制といったシステムに組み込み、権利や保護を与えると同時に義務を課すものだが、周縁化され、疎外される人々は常に存在する。それも、彼らはすべての面で常に・・・・・・・・周縁化されているのではなく、時と場合によって国の正統な構成員に組み込まれたり、そこから排除されたりする。国に対する貢献や義務が重視される場合には、周縁部を含めて可能な限り多くの人々が構成員として数えられる。その最も顕著な機会が戦時であり、平常時には国民として平等な扱いを受けているとはいえない集団も、兵士や労働力として動員される。端的には、女性、子ども、各種のマイノリティ(少数派)集団、貧困層などだ。大日本帝国の場合は、植民地の人々がそこに含まれた。いわゆる内国植民地――北海道のアイヌ民族や琉球/沖縄の人々も同様である。非常事態下では、国のために貢献するのは「名誉」なことであり、普段は二級市民扱いの者も、自らを国のために捧げることで一般市民と同じ立場に格上げされるというレトリックが使われる。その論理を内面化し、積極的に動員に応じる人々も少なくない。(これは日本に限った話ではなく、たとえば筆者の専門であるアメリカ合衆国の歴史においても、第二次世界大戦中は女性が工場や造船所に労働者として動員された。また、ハワイの日系アメリカ人部隊が、合衆国への忠誠を証明する必要を背景に、危険な任務に赴いて多くの犠牲者を出したのはよく知られている。しかし、男性たちが戦場から復員すると女性たちは家庭に戻され、帰還した非白人の兵士らも、出征前と変わらぬ人種差別にさらされ、期待を裏切られることになった。)
 時貞の長女の使う「化け物」という言葉にも、単にものという以上の意味が込められていることに留意しなくてはならない。幽霊族は人間よりもはるかに長寿で、想像を絶する身体能力を持ち、妖怪たちと自在に交流する、まさに人ならざるものである。しかし、ファンタジーの世界を離れて人間の歴史を顧みれば、戦時の敵国民や敵側の兵士、また人種差別や苛烈な搾取、ジェノサイドの対象とされた人々は、化け物や悪魔のような存在として表象されるのが常だった(これをdemonize、悪魔化という)。人は同じ人間と思えばできないことを、相手がモンスターであるかのように認知することで実行してきたのだ。『鬼太郎誕生』において、幽霊族が人間とは違う「化け物」であるのなら、日本国民として数えられないのは明らかだ。鬼太郎の父によれば、幽霊族は人間に生活圏を奪われ、(有害な野生動物のように)狩られて数を減らし、絶滅寸前となっている。それにもかかわらず、龍賀家の長女は、日本の世界制覇に役立つならば、幽霊族も「本望」であるはずと主張する。ここでは幽霊族に、国民であること――市民国家の国民というよりも、血縁を基盤とする土俗的共同体としての「国」の一部であること、それゆえに犠牲となることが要求される。共同体の一員として権利や保護を享受する部分はきれいに削ぎ落され、ただ貢献だけが強いられる。哭倉村と龍賀一族が、日本とその支配階層の戯画化された縮図であることは言うまでもないだろう。
 さらに、血桜が水中に多数の根を伸ばしているさまは、南方の島々のマングローブを思わせる。原作者の水木しげる、また本作中の水木も、南方の戦場からの復員兵だ。血桜の根の間に捕えられてミイラ化した幽霊族の描写からは、戦場でたおれた兵士たちのイメージを見て取れる。水木の回想シーンや、テレビシリーズ第6期20話「妖花の記憶」、映画に引用された漫画作品『総員玉砕せよ!』で描かれる、弔われることなくジャングルで朽ちていった死者たちである。鬼太郎の父は血桜の犠牲者のむくろを、「みなワシの同胞たち」と呼ぶが、戦場の悪夢にうなされる水木にとっても、彼らは戦死した仲間に等しい存在といえる。
 こうして、戦争の犠牲者と、戦後の経済的繁栄の陰で犠牲となった人々が、本作の中では二重写しになる。日本全体の利益代表者として振る舞う龍賀一族と、彼らに蹂躙される幽霊族は、近代日本の権力層と弱い立場の人々との関係のカリカチュアであり、血桜はその関係性の視覚的表現である。共同体のための貢献という美名のもと、強い者が弱い者を搾取して成り立つ日本の繁栄を比喩的な映像で表そうとするなら、広く日本の象徴として理解されている桜は最もわかりやすく、効果的な選択といえるだろう。
(第6回に続く)

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