〈評論〉磔刑のキリスト、あるいは目玉おやじ―『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』における犠牲と父性― 第2回(全8回)
【各回共通の注記】
・映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』と関連の『ゲゲゲの鬼太郎』テレビアニメについて、クライマックスや謎解き、結末を含む内容への詳細な言及があります。問題のない方のみお読みください。
・本文約22,400字。
・上記作品を知らない方にもわかるように書いています。
・書籍著者名の敬称略。
・イメージ写真出典:写真AC(https://www.photo-ac.com/)より「夜桜と月」撮影者: kosumiさん
『ゲゲゲの鬼太郎』と『鬼太郎誕生』:設定とストーリー
映画『鬼太郎誕生』の議論に入る前に、『ゲゲゲの鬼太郎』世界の基本的な設定を振り返っておこう。原作漫画、6つあるテレビアニメシリーズともに設定の揺らぎや変遷の多い作品だが、共通の枠組みは以下のように整理できる。
鬼太郎は幽霊族と呼ばれる種族の最後の生き残りで、超自然的な能力を持つ。長い年月を十二歳前後の少年の姿で生きており、目玉姿の父親を伴っている。妖怪と人間との間に衝突や揉め事が生じた時、両者間の仲介者・調停役として振る舞い、父の助言を得ながら問題解決を図るというのが基本的なパターンだ。鬼太郎の知恵袋である父、目玉おやじは第三者には「親父殿」などと呼ばれ、固有の名前が出ることはない。
第6期アニメシリーズ(2018年4月~2020年3月)では、鬼太郎が人間を助けるのは赤ん坊の頃に水木という人間に命を救われ、育てられた恩返しであると説明されている。「水木青年」と呼ばれることもあるこのキャラクターと鬼太郎親子のエピソードは、漫画版『ゲゲゲの鬼太郎』の前身作品『墓場鬼太郎』から幾度か形を変えて語り直されているが、アニメ版では2008年に深夜アニメ枠で放映された『墓場鬼太郎』で扱われたのみであり、こちらは『ゲゲゲの鬼太郎』と一部の設定や世界観を共有しながらも、扱いとしては別作品になる。第6期シリーズでも水木青年は動画で登場することはなく、初回と最終回でスケッチ風の止め絵に描かれたのと、目玉おやじの台詞で言及されたのにとどまる。しかし、鬼太郎が人間に関わり続ける動機を支えているのが水木青年であることは、視聴者には鬼太郎の折々の台詞や物語展開から伝わるようになっている。テレビアニメ本編では語られなかった鬼太郎と水木との接点を帰着点として、そこから遡った過去のエピソードを想像/創造したのが『鬼太郎誕生』である。
映画の概要を見てみよう。導入には現代の鬼太郎と目玉おやじが登場する短いパートがあるが、物語の主要部分は昭和31(1956)年夏の出来事である。
視点人物である水木(下の名は設定されていない)は戦時中に兵士として南方の激戦地に送られ、死に直面した経験から、再び「使い捨ての駒」とされないために勤め先の血液銀行で出世を果たそうとしている。血液銀行とは、医療用血液が主に売買血で賄われていた時代(1950~60年代)に、血液の採取・貯蔵・供給を担った民間企業である。水木は担当の取引先、龍賀製薬を経営する一族の当主・時貞が死去したとの知らせを耳にし、社内での自分の立場を有利にすべく、新当主決定の場に向かうことを決める。出発しようとする彼に血液銀行の社長は、龍賀製薬が限られた顧客にのみ提供する血液製剤、「M」の製造法を探るよう指示する。
龍賀一族の本拠地・哭倉村では、美しい田園風景とは裏腹に、人々は外からの来訪者に対して疑り深く、攻撃的でさえある。龍賀製薬の社長は村外出身の入婿で、水木の来訪を歓迎するが、この社長が新当主になるとの水木の予想に反し、遺言状は時貞の長男を新当主に指定していた。翌朝、村の神社で新当主の変死体が発見され、「よそ者」の男が拘束される。白髪で長身、着流しに下駄という風体のこの男が当主殺しの犯人とされ、村人の私刑に処される寸前、水木は思わず止めに入り、結果として男の見張り役を押しつけられる。名乗らない男に、水木は揶揄半分で「ゲゲ郎」という呼び名をつける。ゲゲ郎――のちの鬼太郎の父が村に来た目的は、行方不明の妻を探すことだった。
第二の殺人事件を経て、水木はゲゲ郎に手を組むことを提案する。一緒に村の秘密を探り、語り合う機会を通して、両者の間には信頼関係が生まれるが、村長の操る妖怪・狂骨との戦いに敗れたゲゲ郎は再び捕縛される。次いで水木の追っていた血液製剤「M」の生産が、ゲゲ郎の妻を含む幽霊族の生命を搾取して行われていたことが明らかになり、水木はゲゲ郎を解放するため「M」の製造工場に向かう。そこで連続殺人事件の真相が明らかになってのち、水木とゲゲ郎はゲゲ郎の妻を救出に行った先で、悪事の黒幕と対決することになる。
本作では演出手法として、引用・オマージュ・クリシェがふんだんに使われている。創作物の作者と受け手の間で、引用元や意味が共有されていれば、こうした演出は両者間のコミュニケーションを円滑にし、受け手側を作者の意図する理解や狙った感情へと導くことができる。いわゆるハイカルチャーやメインストリームカルチャーに比べ、これらは大衆文化・サブカルチャーの分野においては、とりわけ重要な意味伝達方法となる。大衆文化・サブカルチャーでは主流文化よりも広く雑多なオーディエンスが想定され、それだけに確実な意味伝達方法の選定が必要だからである。
(第3回に続く)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?