〈評論〉磔刑のキリスト、あるいは目玉おやじ―『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』における犠牲と父性― 第1回(全8回)
【各回共通の注記】
・映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』と関連の『ゲゲゲの鬼太郎』テレビアニメについて、クライマックスや謎解き、結末を含む内容への詳細な言及があります。問題のない方のみお読みください。
・本文約22,400字。
・上記作品を知らない方にもわかるように書いています。
・書籍著者名の敬称略。
・イメージ写真出典:写真AC(https://www.photo-ac.com/)より「夜桜と月」撮影者: kosumiさん
はじめに
映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(以後『鬼太郎誕生』)とそれをめぐる反応は、2023年秋から24年春にかけてのサブカルチャーシーンにおいて、一つの事件となっている。
漫画家・水木しげる(1922~2015年)の生誕100周年記念作品として企画されたこの長編アニメーション映画は、水木の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメ版第6シリーズ(「第6期鬼太郎」)の前日譚、いわゆるエピソード0に位置づけられる物語だ。『ゲゲゲの鬼太郎』本編では目玉に小さな身体の生えた、「目玉おやじ」として知られる形で登場する鬼太郎の父が、まだ人間と同様の姿を備えていた時代、ある山村で(原作者と同じ姓の)水木という人間の男と出会い、それぞれの目的のためにバディ関係を結んで共闘するという筋である。水木しげる自身の手になる物語ではないが、モチーフやシーン、台詞、キャラクター造形、作品を支える思想や哲学をも水木の諸作品から取り込み、オリジナルストーリーでありながら、総体としては間違いなく水木しげるの作品世界といえるものを新規に打ち立てた。公開後の早い時期にレビューを書いた英文学者の河野真太郎氏は、原作者の精神の尊重と日本の近現代社会への批評性を踏まえ、本作を「傑作」と評している(文春オンライン、2023年12月2日、https://bunshun.jp/articles/-/67353)。
しかし、この映画の「事件性」は映画自体の出来栄えよりも、公開後に作品が辿った経緯にある。水木しげるの生誕100周年を記念する複数の企画の一つとして、ファンには映画制作の情報が届いていたものの、テレビCMなど、マスレベルに訴えるような事前宣伝は限定的だった。アニメ雑誌の記事を除いて主に宣伝機能を担ったのは、映画の公式ウェブサイト(2023年4月オープン)と公式X(旧ツイッター)アカウント、本作のキャラクターデザインと総作画監督を担当したアニメーター、谷田部透湖氏のXアカウントである。谷田部氏のイラスト付き発信が一部の層の強い関心を集めていたとはいえ、アニメ・漫画や水木しげる作品のコアユーザー以外の層に本作の情報が広まり出したのは、2023年11月17日に劇場公開を迎えてからのことだ。公開当初は空席も目立ったという静かな滑り出しだったのが、口コミで急激に観客を増やし、多くの地域で3か月あまりにわたるロングラン上映となった。2024年4月上旬現在でも上映を継続する映画館があるほか、遅れて公開を始めた館もあり、3月31日までの興行収入はおよそ27億8千万円、動員数は194万人を超えたという(https://www.trendvideo.info/archives/44054)。配給元の東映の社長は、この成績を「想定外の大ヒット」と表現した(2024年2月21日、朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/DA3S15868505.html)。古賀豪監督が「ひっそり公開してひっそり終わる予定」だったと語ったように(2023年11月30日、イオンシネマシアタス調布での舞台挨拶 https://natalie.mu/eiga/news/551227)、本作は大方の予想をはるかに上回る興行的成功を収めつつある。
その背景には、多くのリピーターの存在がある。Xやネット掲示板では、10回から十数回、中には20回以上も観たという人の投稿も見かける。繰り返し観ずにおれなくなる理由の一つは、内容の濃さだろう。物語も画面構成も情報の密度が高く、個人的な感覚では、本来3時間分はある内容を104分59秒に詰め込んでいる。古賀豪監督の説明によれば、元のシナリオが120分だったところを100分までに収めるよう求められ、東映上層部との交渉で4分延長を勝ち取ったという(2023年11月19日、新宿バルト9での舞台挨拶 https://natalie.mu/comic/news/549760)。脚本を担当した吉野弘幸氏は、いくつものシーンやエピソードが絵コンテ段階で削られてしまったとアニメ専門誌のインタビューで語っている(spoon.2Di vol.106、p.50-53)。表現したいことを損なわない範囲の限界まで内容を切り詰めたため、作品としての純度が高まった一方、映画中では明確に描かれないままになった要素が大量に残された。観客は画面や台詞に示された手がかりから、制作者の意図や過去の『ゲゲゲの鬼太郎』作品との関連性を読み取り、さらには空白を想像で埋める必要に迫られる。
後者の衝動は、二次創作作品の爆発的な増加という現象になって表れた。たとえば、2024年3月17日に東京で開催された同人誌即売会、HARU COMIC CITY 32では、『鬼太郎誕生』関連の出展者は711サークルに及び、単発映画ながら全ジャンルの内で3番目に多いグループとなった(HARU COMIC CITY 32 サークル集計 https://anodoko.net/blog/?p=7038)。この人気を商機とみて、東映関連会社やキャラクターグッズメーカー等から関連商品が急速に展開されつつあるが、一部では供給が追いつかないほどの需要が生じている。映画で描かれなかった作品世界のすみずみまでを知りたいという欲求や、本作の物語そのものの時間的・空間的拡大を求める心理が、旺盛な消費意欲を喚起していると思われる。
こうした激しい反応を引き起こした本作について、ネット上には多種多様な感想、コメント、解釈や考察が溢れている。しかし、匿名やハンドルネームではない、執筆者の名前を出しての評論は現状、少数にとどまる。その中で前述の河野真太郎氏のレビューは、水木しげるの作家性とともに、大きな歴史的コンテクストをも念頭に置いている点で注目に値する。河野氏は『鬼太郎誕生』で描かれたテーマの中から、戦時中の国家権力と戦後の資本権力の連続性に焦点を当て、それら権力に虐げられてきた人々の表現として水木しげるが発明したのが「幽霊族」(鬼太郎の属する一種の先住民族)であるとする。その上で、鬼太郎の父と水木のバディ関係は、「虐げられた者たちの連帯として読まれるべきなのだ」と述べる(https://bunshun.jp/articles/-/67353)。この解釈が正鵠を射ていることは、「[鬼太郎の父と水木は]ふたりとも社会的には弱者の側にいる」という古賀監督のコメントから確認できるだろう(『アニメディア』2024年2月号、29頁)。
水木しげるの創作上および思想上の遺産を継承するとともに、今の時代のサブカルチャーコンテンツとして魅力的な要素を数多く散りばめ、かつ重層的なテーマ性を備えたこの映画について、総合的に論評するのは難しい。上記の河野氏のように、特定の切り口から掘り下げる論考がもっと出てくることを期待するが、本稿ではそうした試みの一環として、『鬼太郎誕生』中の犠牲と父性をテーマとして論じてみたい。具体的には、いったんは死してのち目玉おやじとしてよみがえる鬼太郎の父を「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」――記憶や歴史に残らないヒーローとして描く上で、彼に聖なる捧げもののイメージが重ねられていることを読み取っていく。
ここでの「犠牲」とは、迫害や犯罪、災害など、外部の力の被害者(victim)となることではなく、何かの代償としての犠牲/生贄(sacrifice)を指している。鬼太郎の父は、戦時中から現在まで(原作者の兵役時代から没後まで一貫して)続く搾取と抑圧のシステムに抵抗し、結果的にその犠牲者となる一方、そのシステムが残した惨状の後始末のためにみずからを生贄とする。この行為によって、彼は抑圧的構造を支える「大きな物語」に取り込まれるのを回避したばかりか、それを無化することに成功している。(「大きな物語」(仏語 grands récits; 英語 grand narratives)とは、フランスの哲学者リオタール(Jean-François Lyotard)が初めて提唱した概念で、近代社会において広く共有され、社会が向かう方向に正当性を与えるイデオロギーの体系を指す。)
さらに、鬼太郎の父は家父長制的な父親像と対置されることで、近現代の日本社会を批判的に照射する存在にもなり得ている。すでに失われたと指摘されて久しいのにもかかわらず、何度でも復活が図られる「大きな物語」の呪縛と、それが暗黙のうちに前提とする抑圧性は、鬼太郎の父が体現する形の父性とは相容れないものである。本作への熱心な支持は、かつての時代とは異なり、自分が「大きな物語」の主役になることはないという多くの人々の直観を反映しているのではないだろうか。
以下ではまず、『鬼太郎誕生』のストーリーとその演出手法を概観する。次に、作中の桜と磔のイメージを主な材料として、その歴史的・文化的文脈を参照しつつ、犠牲と父性という主題に沿って作品を分析する。最後に、本作を貫く社会批評性と「懐かしい昭和」表象との関係を考察し、結びとしたい。
(第2回に続く)
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