〈評論〉磔刑のキリスト、あるいは目玉おやじ―『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』における犠牲と父性― 第4回(全8回)
【各回共通の注記】
・映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』と関連の『ゲゲゲの鬼太郎』テレビアニメについて、クライマックスや謎解き、結末を含む内容への詳細な言及があります。問題のない方のみお読みください。
・本文約22,400字。
・上記作品を知らない方にもわかるように書いています。
・書籍著者名の敬称略。
・イメージ写真出典:写真AC(https://www.photo-ac.com/)より「夜桜と月」撮影者: kosumiさん
桜の多面的イメージと「妖樹・血桜」(1)
日本の文化において、桜が重要な地位を占めてきたことは論を俟たない。年度初めの時期には、学校その他の公共施設、小売店の店頭、テレビ、雑誌、オンラインメディアなど、リアルとバーチャルとを問わず、あらゆる場所に桜のイメージが溢れる。春に咲く花は他にもたくさんあるが、桜の勢力は圧倒的だ。
多用されても飽きられない理由の一つには、桜のイメージが持つ多義性があるだろう。桜は使われる文脈により、さまざまな意味を伝達することができる。そこに、大衆的に通用するクリシェとしての価値が生まれる。袴姿の卒業生や初めて校門をくぐる子どもたちの晴れやかな場面を飾る、季節のシンボルとしての桜とは別に、より複雑であったり、ダークであったりする桜のイメージも、いちいち説明を要さないほどによく知られている。
その一つとしてまず、死の観念との関係を挙げることができる。佐谷眞木人は桜の表象をめぐる論考で、日本における桜と死のイメージの結びつきは『古事記』の時代にまで遡れる可能性があると示し、それは近世の演劇を通じて社会に広く受容されたと推測する。佐谷によれば、江戸時代の浄瑠璃の世界において、「桜が散ることを人の死にたとえるのは常套的な表現で、しばしば忠義のための犠牲としての死に用いられる」という(佐谷眞木人「近代日本の国家イメージ形成における和歌の機能――桜の表象を中心に」羽田功編『民族の表象――歴史・メディア・国家』p.88)。時代が下って第二次世界大戦の末期には、特攻隊に代表されるように、若い兵士の戦死が散る桜になぞらえられた(前掲書、pp.102-107; 大貫恵美子『人殺しの花――政治空間におけるコミュニケーションの不透明性』pp.68-70)。今日の日本においても、散る花と人の命のはかなさを重ね合わせる表現はありふれており、ほとんどの場合、イメージされる花は桜である。
関連して、桜の美しさの裏に禍々しさを見る視点もある。梶井基次郎による散文詩的掌編「桜の樹の下には」(1927年)を由来とする、「桜の木の下には死体が埋まっている」という表現はその代表だろう。梶井の想像では、桜の美しさの源は、動物や人間の遺体から木の根が吸い上げる「水晶のような液」である。また、坂口安吾の怪奇譚「桜の森の満開の下」(1947年)においては、満開の桜の森は通りかかる者に狂気をもたらすと同時に、美女に化けた鬼がその真実の姿を現す場所でもある。この作品でも、桜と死とのつながりは強く意識されている。
死の観念との結びつきの他に、もう一つよく知られた桜のイメージは、言うまでもなく日本の象徴としてのものである。佐谷によれば、桜は平安朝時代、唐(中国)の文化への対抗意識をもとに、日本の景観のシンボルとして位置づけられたという(佐谷、前掲書、pp.85-86)。この背景には、中国では伝統的に梅が重んじられ、日本もそれに倣ってきたという歴史がある。江戸時代には、桜は日本の固有種という認識(実際にはユーラシア大陸、北米等にも分布)が広まり、これを下敷きとして、国学者・本居宣長が「大和心」を桜に重ねる和歌を詠んだ。宣長によるこの比喩は長く影響を持ち続け、日清戦争(1894~95年)の前後からは学校の唱歌や軍歌に引用されて、ナショナリズムの高揚に利用されるようになっていく。さらに、近代以降の大規模な桜の植樹によって、「桜=日本の景観」という図式はいくぶん観念的なものから、実際の風景へと強化されていった。このように、精神と現実空間の両面で進行した桜の象徴化について、佐谷は、「国家と国民は、桜を媒介として歴史を共有し、互いに組み合う形で国家イメージを形成していった」と述べる(前掲書、pp.86-100)。
『鬼太郎誕生』で桜が重要なモチーフとなっていることは、早い段階から予告されていた。制作中、映画のイメージを紹介するイラスト(キービジュアル、ティザービジュアルとも呼ばれる)6点が順次公開されたが、桜はその3点目、2022年3月に公開されたイラストで初めて登場した。主役の二人が背中合わせで座る絵の中に、和室の襖絵として濃い花色の桜の木が描かれ、畳にも同じ色の花びらが点々と散っている。その後、2023年9月までに公開された3枚のイラストにも、水面に浮かぶ桜の花と花びら、墓場に舞う花びら、廃屋の畳に散らばる花びらがそれぞれ描かれている。この桜が劇中でどんな役割を担っているのかは、映画のクライマックスで明らかになる。
水木とゲゲ郎(鬼太郎の父)がゲゲ郎の妻の救出に向かった先は、巨大な井戸に似た窖の底だった。開口部に結界が張られ、妖気に満ちた広大な空間に天空から満月の光が落ちると、水を湛えた盆のように見える池のほとりに、桜の大木が濃い紅色の花を咲かせているのが見える。龍賀一族の最も年若い少年が二人を迎えるが、その肉体は死んだはずの前当主、時貞によって乗っ取られていた。時貞の口から、水木とゲゲ郎は、その桜が生き血を吸う妖樹・血桜であり、花の色はゲゲ郎の妻の血の色だと知らされる。水面下で複雑に分かれた桜の根の間に、二人は無数の亡骸を見出す。それは、不死の妙薬とも呼ばれる「M」の原料とするため、血を奪われた幽霊族たちだった。
血を吸う樹木というモチーフは、『鬼太郎』世界の中ではユニークなものではない。『ゲゲゲの鬼太郎』には、生き物に寄生したのち宿主の血を吸って木に変えてしまう「吸血木」や、獲物を捕えて血を吸う「妖怪樹」といった植物の妖怪が登場する。類例としてテレビシリーズ第5期には、人間を虫に変えてから捕食する椿の古木、「古椿」の話もある。そもそも、生き物の血を吸ったり肉体を喰らったりする植物という発想自体、日本内外のフィクションに広く見られるものである。
『鬼太郎誕生』の血桜も、そうした植物の化け物や、鬼太郎シリーズにこれまで出てきた妖怪的樹木のバリエーションとしての面を持つ。前述のように、桜の美、特に花が満開の時の美しさはしばしば、他の生き物から養分を吸い上げて成り立つものと想像されてきた。ゲゲ郎の妻ら幽霊族から血を吸い、満月の下で紅に輝く桜の巨木は、このような歴史的に作られてきたイメージを基礎としている。そうした観点からは、血を吸う桜という設定はあまりにも「普通」で、使い古されたクリシェの域を出ないようにも見える。
しかし、この映画で幽霊族の血を吸う植物が桜、それも圧倒的に美しい桜でなければならない理由は別にある。河野真太郎氏が指摘したように、幽霊族が権力に虐げられてきた人々の一表現だとすれば、満開の桜は日本の繁栄のメタファーにほかならない。
(第5回に続く)
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