〈評論〉磔刑のキリスト、あるいは目玉おやじ―『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』における犠牲と父性― 第7回(全8回)
【各回共通の注記】
・映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』と関連の『ゲゲゲの鬼太郎』テレビアニメについて、クライマックスや謎解き、結末を含む内容への詳細な言及があります。問題のない方のみお読みください。
・本文約22,400字。
・上記作品を知らない方にもわかるように書いています。
・書籍著者名の敬称略。
・イメージ写真出典:写真AC(https://www.photo-ac.com/)より「夜桜と月」撮影者: kosumiさん
「大きな物語」の喪失と新たな「父」像
「父」について考えるのに先立ち、前項で見た「国」という言葉の意味を、もう一歩深く検討しておきたい。時貞と鬼太郎の父は、なぜ「人間」でも「世界」でもなく、「国」が滅ぼされると言うのだろうか。無限に生まれ続ける狂骨は、日本の外には出ないのだろうか。国境を越えて、世界中の人々を殺しはしないのだろうか? 別の言い方をするならば、彼らの考える「クニ」とは、グローバリズムの時代を生きる私たちが前提とする「日本国」とは、どのように違うのだろうか?
時貞の使う「国」の意味を考えるヒントは、先に見た龍賀家の長女の台詞にある。「この国を……再び世界に君臨させる」と「お父様の夢」を語る彼女の認識の中では、「国」とはおそらく、家父長制に基づく支配と保護の構造を備えた、疑似家族的共同体である。彼女の娘が水木に、「母にとってはこの村がすべて」と語ったことからも推測できるように、それは彼女が唯一知っている「国」の形なのだ。日本は村の拡大版でしかなく、したがって覇権を取るべき「世界」は、血縁を中心とする紐帯で結ばれた集団同士が、互いに競い合う場として想像される。そこには集団の境界を越えて通用する普遍的なルールや理念(たとえば人権思想)が入り込む余地はなく、ただ閉鎖集団内の慣習的論理のみが尊重される。
一方、鬼太郎の父が使う「国」は、龍賀家の人々のそれとは異なる。幽霊族は、もともと人間の作った社会制度の外にある存在だ。河童と語らい、烏天狗から酒をもらう鬼太郎の父は、人間の利害構造の中で生きているわけではない。人間社会が狂骨に滅ぼされたところで、支障はない可能性が高い。だからこそ、水木は狂骨による殺戮を止めようとする鬼太郎の父に対し、「いいじゃないか、やらせとけ」と叫ぶのだが、鬼太郎の父は、守ろうとする「国」を「わが子が生まれる世界」と言い換える。
このことから、彼が「国」と言う時に念頭にあるのは、人間を含む日本の国土・風土であると推測できる。自然や野生動物、彼の仲間である物の怪の類だけでなく、長い年月を通じて人が暮らし、積み上げてきた歴史の産物や人間そのものも、日本の風景の欠くべからざる一部であり、その全部を次の世代に残しておくために、鬼太郎の父はわが身を犠牲にして過去の負債を清算する役を引き受ける。むしろ、人間・人為と自然との区別がない、すべてが連続した場として「世界」が把握されていると言ってもいいだろう。その世界観の中には、社会制度や国境など、人間の世界認識の基礎を成す区分や境界線はない。ただあるのは、これから生まれる子どもと友たる水木が生き、彼らの未来が展開するであろう時間と空間のみである。
こうして、「大きな物語」の主役であり続けようとした「父」時貞は、その物語の欺瞞性を悟った「息子」と、物語からあらかじめ排除された異端者、幽霊族との共闘によって敗れ去る。日本の「大きな物語」が何だったかは、すでに明らかだろう。それは、後発の近代国家として出発した日本が、国民を挙げての献身と努力により、国際社会の頂点に立つ夢を実現するという物語だった。『鬼太郎誕生』は、「大きな物語」の有効性がすでに失われたのにもかかわらず、それを永続させることで権力を保とうとする勢力に対し、寿命の尽きた物語の再興のために動員されようとする側が、異議申し立てをする映画として読むことができる。
戦前・戦後を通し、数世代にわたる年月の間、「大きな物語」は公教育からマスメディア、大衆文化に至るまで、あらゆる言説空間における現実認識の枠組みとして機能してきた。日本語の言語空間に生まれ育ち、それ以外を知らない者が、「大きな物語」の問題性に気づくのは難しい。「大きな物語」は、それが有効であると感じられる間は、共同体の構成員に目的意識や、将来への希望・期待を抱かせる効果があるからだ。わかりやすい「生きる意味」を与えてくれるのである。
戦争で心身に深刻な傷を負った水木さえも、哭倉村に来た時点では「大きな物語」の忠実な信奉者だった。その証に、彼は二度、「世界一」という言葉を使う。一度目は龍賀一族の少年(のちに時貞に身体を乗っ取られる)に対し、「もうじき東京に世界一の電波塔[東京タワー]ができるらしい」と話す時。少年に水木は、「日本はこれからどんどん豊かになる」と言い、戦争・貧困・病苦から解放されたユートピアとしての未来を語る。二度目は、鬼太郎の父に「M」の効能を語っている時だ。「そんなものをありがたがる人間の気が知れない」と鬼太郎の父が言うのに対し、水木は、「皆がこいつ[M]を打って働けば、日本は世界一豊かな国になるだろう」と返す。どちらの場面でも、水木の口調や表情に疑いの影はない。この点では、水木はごく普通の――と言って語弊があれば、多数派(マジョリティ)の日本人である。
その水木に、父親がいないのは示唆的だ。鬼太郎を拾い、育てることになる水木家が母一人、子一人なのは原作からの設定で、彼の父がいつ、どのように不在となったのかは明らかでない。映画では、水木が鬼太郎の父に、復員した時のことを振り返ってこんな話をする:「内地に戻ってきたら、おふくろは死んだ親父の親戚連中に騙されて、なけなしの財産をすべて失っていた」。水木が自分の父親に言及するのは、これ一回きりである。水木の父の不在は、単に原作に準拠した設定、あるいは彼の後ろ盾のなさ(自力で這い上がるしかない立場)を示すための設定として捉えても誤りではないだろう。しかし、水木が当時の典型的な日本人として描かれ、ひいては本作の「狂言回し」(水木役の声優、木内秀信氏の発言。『PASH!』2024年3月号、p.25)、として、私たち現代の観客の視点を代行する人物でもあることを考えれば、このことは象徴的な意味を帯びてくる。「大きな物語」の喪失は同時に、それを牽引する「父」の喪失でもあるからだ。企業内で出世に邁進する水木の目指す先は、「大きな物語」の「父」的地位であり、映画の登場人物では時貞や龍賀製薬の社長がそれにあたる。しかし、「大きな物語」それ自体が失われた時、その中の「父」はもはや目標としての意味を成さなくなる。古いモデルに代わる、新しいオルタナティヴ(代替案、別の選択肢)があるとしたら、それはどんなものになるだろうか?
映画の中で、鬼太郎の父/ゲゲ郎が水木の父でもあるかのように振る舞う場面がある。上述の、水木が亡父に言及した台詞の前後のことだ。龍賀家の少女に愛を告白されながら、誠実な返事をしない水木をたしなめて、ゲゲ郎は「本当に誰かを愛しいと思ったことはないのか」と彼に尋ねる。それに対し、水木は「俺にそんな器はない」と答える。酒を飲みながら互いの経験を明かし合った後、二人の間に次のようなやり取りが行われる。
ゲゲ郎:おぬしにもいつか必ず自分より大事なものが現れる。(後略)
水木:そんな日が俺にも来るのだろうか。
ゲゲ郎:来るさ。誰しもいつかは運命に巡り合うのじゃ、必ずな。
ゲゲ郎がいつの時代から生きているのかは不明だが、(「妖怪のようなもの」という自己認識から)水木よりも相当に長い年月を生きてきたと推測できるため、単に人生経験の豊富な年長者が若い友人を教え諭しているシーンに見えなくもない。しかし、ここでゲゲ郎が水木に対してある種の父性を発揮していると解釈できる根拠がある。
先に触れたように、本作は『ゲゲゲの鬼太郎』テレビシリーズ第6期のエピソード0という位置づけであり、両者は共通の物語世界に属している。第6期に、「地獄流し」という原作漫画を下敷きにした回があるが(第68話)、この中に、上述のシークエンスに酷似した部分がある。全体のストーリーは、強盗を犯した青年が鬼太郎の運転するバスで生きながら地獄へ送られ、紆余曲折の末に改心して現世に戻り、更生への道を歩み始めるというもの。地獄行きのバスには青年の他にもう一人、素性不明の男が乗っている。まさに地獄というグロテスクな恐怖体験の後、二人は酒の溜まった池を見つけ、飲んで良い気持ちになったところで会話が始まる。幼い頃に父親を亡くし、不安定な生活の末に強盗に至ったと話す青年に、男はやり直すことを勧め、「君にも必ずいる、見てくれている人が。だから信じるんだ。何とかなるから」と言う。物語の最後に至り、男は青年の亡き父親だったと明かされる。
『鬼太郎誕生』の酒盛りシーンでは、水木とゲゲ郎は夜の墓場に並んで胡坐をかいている。墓場は湖に面した斜面にあり、観客は湖側から二人を見る形になる。第6期「地獄流し」では、酒に満ちた池のほとりに、青年と男がやはり並んで座り込んでいる。映画においては妻の話をしながら大粒の涙を落とすゲゲ郎に、水木が「お前、泣き上戸か」と言い、第6期「地獄流し」においては大声で説教を始める男に、青年が「からみ酒かよ」と言う流れも共通している。この類似が映画制作者の意図によるものか、偶然にすぎないのかはわからない(脚本家は異なる)。しかし、第6期を見てから映画に進んだ観客には、ゲゲ郎がこの「地獄流し」の父親と同じ役割を水木に対して担っていると読み取れるだろう。「地獄流し」で父子が語り合う場所は死者の世界であり、本物の地獄だが、映画で水木とゲゲ郎が酒を酌み交わすのは墓場である。現世ではあるが、死者に最も近い場所といえる。ここで映画冒頭の、「この先、地獄が待っておる」というゲゲ郎の台詞が単に比喩的なものではなかったことが理解されるのである。
かくして、生物学的な父はすでに亡く、抑圧的・搾取的な社会制度と一体化した「父」をも否定した水木にとって、ゲゲ郎の体現した「父」像は唯一の、そして新たな「父」のモデルとなった。狂骨の襲撃により、哭倉村で自分の身に起こったことを思い出せなくなった水木は、雷雨の墓場で「化け物」の子に対面した際、打ち殺そうとして思いとどまる。その脳裏には、ゲゲ郎――鬼太郎の父の面影が、背景を埋め尽くす桜とともに浮かんでいる。水木が赤子の鬼太郎を抱きしめるシーンで映画は終わるが、私たちはのちに、鬼太郎が「恩返し」あるいは「約束」として、人間と妖怪を仲介する存在に成長するのを知っている。水木が鬼太郎にどう接していたかは映画では描かれない。しかし、想像することはできる。
水木はゲゲ郎がまだ見ぬ子や自分に対してしたのと同じように、血のつながらない子を守り、導くだろう。だが同時に、彼は新しい孤独を引き受けなくてはならない。幽霊族の最後の者である鬼太郎は、入っていくべき同族の社会を持たないが、人間社会にとどまることもできない。鬼太郎はいずれ、これも私たちが皆知っているように、水木のもとを去り、目玉おやじとともに、自然と人ならざるものから成る彼の世界に出立していく。水木は、かつての時代の親たちのように、自分の馴染んだ社会や生産・生活の仕組みに合わせて子どもを準備してやることはできない。鬼太郎の父も、原初的な愛以上のものを水木に教えることはできない。つまり、それ以外のすべては、水木がひとりで考えなくてはならない。みずからの力で、「父」を創造しなくてはならないのだ。
「大きな物語」の「父」が破壊され、固定的で安定した「父」のモデルが失われた今、水木、そして私たちは、愛というあやふやな概念のほかによすがとするものはないのだろうか。結局、問われているのは、私たちが従属を代償とした庇護を求めずに生きていけるかどうかということ、言い換えれば、成熟できるかどうかということなのかもしれない。
(第8回に続く)
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