〈評論〉磔刑のキリスト、あるいは目玉おやじ―『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』における犠牲と父性― 第6回(全8回)
【各回共通の注記】
・映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』と関連の『ゲゲゲの鬼太郎』テレビアニメについて、クライマックスや謎解き、結末を含む内容への詳細な言及があります。問題のない方のみお読みください。
・本文約22,400字。
・上記作品を知らない方にもわかるように書いています。
・書籍著者名の敬称略。
・イメージ写真出典:写真AC(https://www.photo-ac.com/)より「夜桜と月」撮影者: kosumiさん
磔刑のキリストと生贄の白兎
血桜の下で、鬼太郎の父は衰弱した妻と再会するが、その直後、時貞が呪具の髑髏から呼び出した巨大な狂骨と戦うことになる。狂骨とは江戸時代の画集で紹介されている妖怪で、井戸から出現し、強い怨念を持つとされる。映画では鬼太郎の父が水木に対し、「殺され井戸に打ち捨てられた、死者の怨念から生まれる妖怪」と説明する場面がある。本来、個別の狂骨は足のない幽霊に似て、人間と変わらない大きさである。しかし、哭倉村で村長や時貞が操る巨大狂骨は人間由来ではなく、「M」製造のために犠牲となった幽霊族の怨念に由来する、多数の狂骨の集合体だった。そのため、鬼太郎の父一人では力及ばず、彼は狂骨の鋭い爪で「串刺しに」され、八方から伸びた桜の枝によって「磔のように」血桜に縛りつけられる。
「串刺し」「磔のように」というのは筆者の考えた比喩ではない。音声ガイドの表現である。本作には、スマートフォン用アプリから使える音声ガイドが提供されている(HELLO! MOVIEアプリ、詳細 https://hellomovie.info/)。主に視覚障害のある観客をサポートするものだが、映画の制作者による公式の映像解説ともいえるため、画面に情報量の多い本作では、視覚に問題のない観客にも広く利用されているようだ。音声ガイドは桜に固定されたゲゲ郎の姿を、明確に「磔のよう」と見ることを観客に促す。つまり、ここでは十字架にかけられたキリストや、同様に処刑された殉教者らが意識されていることになる。
キリスト教に限らず、宗教は古くから、芸術作品の発想元として機能してきた。宗教的世界観の中で重要な意味を持つ人物や歴史的出来事、伝承中の場面などは繰り返し図像や立体物として表現され、社会に伝播して広く共有されるイメージとなっていく。印刷物や映像作品の大量生産・大量頒布が可能な時代に入ると、宗教的イメージもまた数限りなくコピーされ、大衆文化の一部としてさまざまに変化を遂げながら流通するようになった。磔刑のキリストおよび類似のイメージは、キリスト教圏の外にある日本においては宗教由来の意味が薄まり、クリシェ的表現としての性格が強くなっているように思う。アニメ作品でキャラクターの絶体絶命の状況を表す図としては紋切り型ともいえ、見ようによってはキッチュでさえある。にもかかわらず、血桜に縛られた鬼太郎の父の姿をありがちな描写として片づけられないのは、物語の早い段階で、彼をサクリファイスとする伏線が張られているためである。
水木が哭倉村に入った日、龍賀製薬の社長は彼に、龍賀家の当主は代々、村の神社の神職(神主)も兼ねていると語る。画面に神社の正面が映ると、祭壇の左右には串に貫かれた白兎が一匹ずつ、観客に腹側を向けて供えられている。特徴的な長い耳は向こう側にあって見づらいため、一見しただけではそれが兎だとはわかりにくいが、古賀豪監督が「兎の供物」とインタビューで明言している(『アニメージュ』2024年3月号、p.44)。鬼太郎の父は、若い容貌ながら先述のように白い髪で、肌も他の成人男性たちに比べ、はっきりと白く表現されている。目は鬼太郎と同じく、丸く大きな白目に瞳が点でしか描かれていないため、虹彩の色のわかるカットは少ない。しかし、目玉おやじの虹彩は赤く、その前身であるゲゲ郎も、暗がりで目が光るシーンや目がクローズアップされるカットでは、赤い虹彩を持っているのが見て取れる。白い身体に赤い瞳――祭壇に捧げられた白兎と鬼太郎の父に共通する外見的特徴は、両者の同じ役割を暗示する。水木と鬼太郎の父が窖に足を踏み入れた時、時貞は鬼太郎の父に「みずから生贄になりに来たか」と声をかける。神社の神主を務めながら村の経済の要を握る龍賀一族の長は、いわば聖と俗、両方の世界を統べる存在である。したがって、鬼太郎の父に対する時貞の「生贄」という言葉の中には、神に捧げられた白兎とのアナロジー(類推)が明確に含まれている。巨大狂骨が鬼太郎の父を「串刺し」にし、血桜の形を取った祭壇に彼の身体が掲げられるに至り、白兎に予告された鬼太郎の父の命運はここで決したかのように見える。
けれども、生贄以外の意味を付与されていない無力な白兎とは違い、鬼太郎の父は受動的な犠牲者となることを拒否する。彼は自分の意志により、権力者の計画とは異なる形で己をサクリファイスとするのだ。時貞の勝利宣言に抗う鬼太郎の父に、彼の言葉で「相棒」と位置づけられた水木が呼応する。水木は窖の妖気によって半死半生となっていたが、気力を振り絞って時貞に迫る。時貞はその水木に、報酬をちらつかせて自分の配下になるよう持ちかける。
もし、ここで水木が時貞の懐柔に耳を傾けてその軍門に下り、鬼太郎の父が血桜に捕らわれたままとなっていれば、哭倉村の利益誘導システムは維持されたはずだった。「M」の生産が続けられ、中央の政財界とつながる龍賀家が村人に利益を配分する仕組みである。それは国家権力の代弁者たる龍賀一族の論理では、彼らに従う者たちが「大義」のために身を捧げる、美しい国の形だろう。しかし、その仕組みが誰を潤し、誰を犠牲としてきたのかを喝破した水木は、出世を追い求めてきたこれまでの生き方を捨て、斧で髑髏を破壊する。呪具が失われて制御不能となった巨大狂骨に襲われ、時貞は永劫の闇に封印される。
これがただちに大団円とならないのは、時貞は悪事の中心であると同時に、既存の秩序の守護者でもあるからだ。指示を与える者を失った巨大狂骨は、時貞の次には鬼太郎の父とその妻に襲いかかる。妻の腹に宿っていた赤ん坊(のちの鬼太郎)の力により、この狂骨は消滅するが、窖には長年(鬼太郎の父の推測では「数百年」)にわたって犠牲となってきた幽霊族および人間の怨念が溜まっている。無数の狂骨に姿を変えたそれらを髑髏に封じ、窖に結界を張って閉じ込める能力を持つ術者は時貞しかいなかった。時貞が無力化され、結界が破れると同時に狂骨たちは外へ飛び出し、村人を殺戮し始める。龍賀一族と村全体の絶対的な「父」として君臨した時貞がいなくなったことは、村の成員の保護者がいなくなったことをも意味した。
それだけではない。水木に髑髏を壊された時貞は、「狂骨が暴れて、国ごと滅ぼすぞ」と口走った。水木自身を含む日本全体の生存と秩序が、幽霊族を犠牲にして成り立つ産業の所有者によって維持されていたことになる。そうした意味では、水木でさえも時貞の「息子」なのだ。時貞の配下となって庇護を受ける道を選ばなかったことで、水木は「父」が残した負の遺産により、哭倉村の村民やその外の日本社会のシステムもろとも、狂骨に滅ぼされる運命の前に立つ(水木はそれを「ツケ」として受け入れようとするが、ここでは深入りしない)。
だが、鬼太郎の父は妻と子を水木に託し、自分は怨念の依代となって事態の進行を止める決断をする。彼もまた、このままでは新たな狂骨が生まれ続け、「国を滅ぼすこととなる」と口にする。「お前が犠牲になることはない」と止める水木に、鬼太郎の父は、「わが子が生まれる世界」を守るために自分がやらなくてはならないと語る。水木と身重の妻を送り出した後、彼は「おぬし[水木]が生きる未来」を見たいというモノローグを残し、怨念の群れに呑み込まれていく。
こうして、鬼太郎の父は自らの身体を代償として「国」を、すなわち水木をはじめとする外界の人々を救うのだが、「妖怪のようなもの」である彼の行為を偉業として歴史に刻む者はなく、彼は「アンサング・ヒーロー」にとどまる。実質的な救世主でありながら、評価されることはないのだ。しかし、そのことによって、鬼太郎の父は「大きな物語」に都合のよい存在として動員されるのをまぬがれる。鬼太郎の父が発揮したのは、近代日本の「大きな物語」に取り込まれないヒロイズムだった。より具体的には、軍事的覇権と経済的覇権に民族的運命の物語を重ねようとするナショナリズムの言説に、身を挺して国を守った英雄として組み込まれ、その強化に貢献させられることを拒否しつつ、全く別の文脈から、結果的に同様のことを成し遂げたといえるのだ。妻子と友の生きる未来/世界を守るという意志を貫いた鬼太郎の父の行為により、日本の人間界全体が滅びから救われたのは、付随的効果でしかない。
ここまでの議論では、『鬼太郎誕生』の二人の中心人物のうち鬼太郎の父に焦点を当て、近代国民国家の「大きな物語」に回収されない彼のヒーロー性を、サクリファイスという観点から分析してきた。次項では本作のもう一人の主人公、水木に視線を転じ、「大きな物語」と「父」概念の関係について考察を進めていく。
(第7回に続く)
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