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#30 山中湖に佇む徳富蘇峰館(山梨県山中湖村)

明治〜昭和にかけてのジャーナリスト・思想家・歴史家である徳富蘇峰(1863-1957年)が昭和7年以来、毎夏を山中湖畔の山荘「双宜荘」で執筆活動をしていたことにちなみ、山中湖村に徳富蘇峰館がある。

徳富蘇峰と山中湖

徳富蘇峰がはじめて山中湖を見たのは1913年、御殿場青龍寺の和尚と膝栗毛にて付近を往来したのが最初であったようだ。1932年、山中湖畔の別荘に入居し、1945年まで毎夏「近世日本国民史」の執筆活動を行った。

山中湖畔の旭日丘は、蘇峰が命名したが、由来は「仰いで富岳の旭光に映じて雲表に立つを望み、俯してその倒景の湖面に反射するをみる」とのこと。

蘇峰は山中湖での生活を送る中で、村の青年から湖の恵みに感謝する祭事を行いたいが、何か良い名前はないかと相談を持ちかけられた。そこで蘇峰は、湖に報いる祭りとして「報湖祭」と名付けた。「感謝報恩は人情の尤も酵美なる発露である。その対象が人と人との間に於ても、人と天然との間に於ても」と蘇峰は述べたとのこと。

四恩堂について

蘇峰の日記の中には「四恩堂」を山中湖畔に建てたい、という願望が書かれていたという。生涯を通じての四人の恩人とは、父・徳富淇水、新島襄、勝海舟、横井小楠だ。

徳富淇水

徳富淇水(1822-1914年)は蘇峰の父。肥後藩での藩政改革に失敗した横井小楠は城下に「小楠堂」を開いたが、その門下生の第一号が淇水であった。なお、淇水の妻は、小楠の妻つせの姉であり、師弟関係だけでなく姻戚関係にもあった。1880年、共立学舎の設立に参加して漢学部で教鞭を執る他、蘇峰が1882年に自宅で開いた大江義塾でも漢学を教えたとのこと。

淇水の死後、蘇峰は「自らの努力も、精進も、反省も、皆悉く、父を対象として出てきたものである」と述べている。

新島襄

新島襄(1843-1890年)は1864年にアメリカに密出国し、十年の長きに渡ってそこで学ぶ、プロテスタントとして洗礼を受けた。1872年にはアメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、その語学力から木戸孝允の通訳に参加、使節団の報告書「理事功程」の編集にも協力した。

日本に帰った後の1875年、アメリカでのキリスト教宣教師団体の後押しもあり、京都府にて同志社英学校を設立。実用的な学問の必要性を感じていた新島は単なる神学校ではなく、近代科学を中心とする英学の講義に重点を置き、これを通じてキリスト教の感化を与えようとした。

蘇峰は、同志社英学校の設立間も無くの時期に入学した。新島のキリスト信仰に裏打ちされた厳格な姿に深い感銘を受け、生涯最大の師と仰いだ。

勝海舟

勝海舟は後述する横井小楠を先生と仰いでたことから、小楠の門下生である父淇水は勝海舟と接点があった。蘇峰が東京に上京した際には、蘇峰自身が海舟の家の隣に住むことになる。

横井小楠

横井小楠は江戸末期の熊本藩にて藩政改革に取り組んだ。実用的な西洋の文物を取り入れて、藩政改革を実行する必要性を主張したことから、彼のグループは「実学党」と呼ばれた。

小楠は、早くからその才能を認められ、藩校「自習館」の塾長となる。開国後の混乱期にいち早く富国強兵策を論じ、幕府の政治を「私政」として批判した。小楠は「公共の政」であるとべきと主張したが、その思想は勝海舟にも大きな影響を与え、弟子の由利公正の原案になる「五箇条の御誓文」に結実している。




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