見出し画像

#27 特攻起源の地 筑波海軍航空記念館(茨城県笠間市)

筑波海軍航空隊記念館は、茨城県笠間市にある筑波海軍航空隊の記憶を語り継ぐ戦争ミュージアム。日本最大規模で現存する戦争遺構であり、陸海軍が行なった特攻の実行が最初に決められた地でもある。

海軍航空隊の創設

海軍における航空研究は1909年7月に発足した陸海軍臨時軍用気球研究会が最初だった。1912年、海軍は独自の航空機運用が必要とのことで研究委員会を設置した。1916年、横須賀海軍航空隊を新設し、1927年、海軍航空本部を海軍省の外局とした。

筑波海軍航空隊は1934年、搭乗員養成を行う霞ヶ浦海軍航空隊の分遣隊として設置された。

筑波海軍航空隊と特攻

1944年6月、マリアナ沖海戦敗北を受け筑波海軍航空隊1階士官室で、誘導ミサイルの誘導操縦を人間が行う新兵器を採用するか是非が問われた。3日間の猶予の後、複数の志願者が出たことにより、後に「桜花」と呼ばれる兵器の開発と体当たり部隊「神雷部隊」の設立が決まった。

1944年10月20日、フィリピン戦線で大西瀧治郎中将により「神風特別攻撃隊」が組織され、特攻出撃が開始される。大西中将が神風特別攻撃隊の創始者と言われるが、その前に体当たり部隊の設立が決まっていたことはあまり知られてないようだ。

神雷部隊(第七二一海軍航空隊)は人類が初めて有人での航空兵器の体当たり攻撃を行うことを目的に設立された航空隊で、正式な手続きを踏まえて設立された唯一の海軍特攻隊だった。神雷部隊の特徴は以下の通り。


・初めて、かつ唯一、体当たりを前提として設立された
・人間爆弾と呼ばれた桜花を実戦で使用した唯一の部隊
・零戦に500キロ爆弾を搭載し体当たりを行なった
・海軍特攻を象徴する舞台として最多の特攻戦死者を出した

なお、特攻という言葉自体は第二次世界大戦前より存在していたが、1944年以降、作成行動として実行された特攻は脱出・救出は想定されておらず、「必死」が前提とされていた。特攻隊による戦死者は4,160名とのこと。

<1944年>
・筑波、神ノ池、大村、元山の各航空隊に特攻隊編成命令、筑波空でも特攻隊が編成され、25名がフィリピン第201航空隊へ
・再編成された金剛隊として12名が特攻、空戦で6名、陸戦で1名が戦死


<1945年>
・最高責任指導会議は全軍特攻化を決定(1/18)
・神風特別攻撃隊筑波隊が編成(64名、2月)、3月には20名追加
・出水基地戦闘機隊として沖縄作戦に参加し4/16までに5名が戦死
・第1筑波隊17名が鹿屋基地から出撃、全員特攻で戦死(4/6)
・第2筑波隊3名が特攻で戦死(4/14)
・第3筑波隊7名が特攻で戦死(4/16)
・第4筑波隊5名が特攻で戦死(4/29)
・第5筑波隊9名が特攻で戦死(5/11)
・第6筑波隊14名が特攻で戦死(5/14)
・第一神雷爆撃隊に第7、8筑波隊が参加、5名戦死(6/22)
・筑波海軍航空隊が解体(10/31)
*第1-4筑波隊までは零戦21型、練習機で250kg爆弾を搭載、第5-8筑波隊までは主に零戦52型を使用し500kg爆弾を搭載

筑波海軍航空隊で操縦訓練を受け、戦地に飛び立って戦死した兵士は優に1,000名を超えている。

学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。
しかし負けたとしてもそのあとはどうなるのです。おわかりでしょう。
われわれの生命は講和の条件にもその後の日本人の運命にもつながっていますよ。
西田高光(第五筑波隊)

1999年以降「筑波海軍航空隊慰霊の集い」が記念碑の前で毎年開催され、2013年に記念館として一般公開が始まり今日にいたる。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?