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#26 天狗党の足跡を遺す 回天館(茨城県水戸市)

回天館は幕末に天狗党が捕縛された越前国敦賀にあった16棟の鰊蔵の一つを移管したもの。天狗党関連史料を展示している。回天神社では、安政の大獄以降、国のために殉じた1,865名の志士を慰霊する。

桜田門外の変

大老・井伊直弼を暗殺した桜田門外の変(1860年)は17名の水戸浪士と1名の薩摩士によって決行された。

関鉄之介(1824-1862)

大子郷校の建設など水戸藩改革派として活躍。1858年井伊直弼に対する諸藩の決起を促すべく諸藩遊説するが十分な成果を上げられず、その後、高橋多一郎、金子孫二郎らの大老井伊直弼暗殺計画に参加する。桜田門外の変では実行隊長であった。逃れていたが、越後国で捕らわれ斬刑。

蓮田一五郎(1832-1861)

静神社長官、斎藤監物の強い影響を受けた。桜田門外の変の直後、負傷し脇坂中勢邸へ自訴した。その後斬刑。事件の有様を記録した「幽因筆記」や襲撃現場の絵画、幕府評定所での取り調べに対する応答ぶりが有名。

金子孫二郎(1804-1861)

徳川斉昭に使えて郡奉行となる。安政の大獄に怒り、大老井伊直弼要撃を計画した。桜田門外の変には直接参加せず、成功の知らせを受けるや薩摩藩士有村雄介と大阪で後挙を謀ろうとしたが、伏見で捕らえられ、江戸で斬刑。

天狗党の乱:筑波山での挙兵

桜田門外の変の4年後、文久三年の政変で尊王攘夷運動が一旦挫折した頃、藤田小四郎(東湖四男)は幕府が攘夷の勅命を受けながら横浜港の閉鎖を実行しないことに憤激し、非常の手段を持って幕府に攘夷の決意を促すべきと考えた。

1864年3月、藤田小四郎、水戸町奉行田丸稲之衞門ら63名が筑波山で挙兵した。檄文を発しつつ、日光東照宮の参拝を目指すが、日光奉行が拒否、栃木太平山に屯集する際には1,000人を越えていたという。一ヶ月半の宿陣の間に水戸では反天狗派(諸生党)が結成され実権を握った。それを知った天狗党は再び筑波山に戻る。幕府は周辺諸藩兵と諸生党を動員して鎮圧に乗り出すも、下妻戦で敗退する。

7月末、下妻戦で敗北した諸生党は水戸に戻り、天狗派への弾圧を始めたことから、天狗派筑波勢は水戸に向かうが、予告攻撃を通告したこともあり、攻略に失敗。この時、筑波勢のうち他藩からの志士600名は横浜鎖港を計画し分離したが、幕府郡の追撃を受け潮来、麻生方面へ敗走する「天狗党鹿島落ち」となった。

激化する情勢の中、藩主徳川慶篤は争乱鎮静化のため、宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に遣わした。執政榊原新左衛門ら700人(大発勢)が同行した他、途中で武田耕雲斎らも合流した。しかし諸生党が入城を拒否したため、頼徳らは那珂湊へ移り、小川方面にいた藤田小四郎ら五百人(筑波勢)も武田らを支援するため那珂湊に来た。

那珂湊では、幕府軍、諸生党軍を含めて2-3万の勢力に包囲されていたという。尚、頼徳は江戸に向かう途中、幕府に反抗する賊徒の首魁として切腹を強要され、10月に自刃した。

天狗党の乱:西上と降伏

10月23日の合戦で榊原ら千人余が投降した際に、反対した武田耕雲斎、藤田小四郎らは、天狗党とともに脱出、尊王攘夷の志を朝廷に訴えるため、禁裏後守衛総督一橋慶喜を頼って京都に登ることとした。

上州、信州で幕府郡の迎撃を受けたが撃破し、越前国へ向かった。寒気と食料欠乏の中、越前新保の宿に辿り着くが頼みとする慶喜は天狗党追討軍を組織し加賀藩に総攻撃を厳命していた。天狗党は嘆訴状を再三呈上するも認められず、加賀藩に降伏した。

加賀藩は降伏した天狗党823名を敦賀市内の寺院に分散収容したが、その処遇は武士道に則り、温情あついものだったという。ただ那珂湊で戦っていた追討軍の田沼意尊が敦賀に到着すると様相は激変、敦賀浜の鰊倉16棟に全員を押し込められ残虐非道の扱いを受けた後、2月23日に至るまで計353名が斬首された。

藤田小四郎(1842-1865)

藤田東湖の第四子。詩文、絵画をよくした。筑波山にて挙兵し、各地で交戦する。両毛、信州、美濃をへて北陸にでるも、新保で加賀藩に降伏。敦賀の地で24歳の若さで刑死した。

武田耕雲斎(1803-1865)

徳川斉昭の藩主擁立に活躍した改革派の重臣。天狗党の乱では途中から筑波勢に合流。総大将となり西上へ向かうが、新保で加賀藩に降伏。敦賀の地で刑死した。

当時、勝海舟、西郷隆盛らは、「これによって幕府自身の命運がつきた」と評したようにこの悲劇から三年後、明治維新となった。


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