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『生誕の災厄』

『生誕の災厄』
E.M.シオラン 出口裕弘訳 紀伊國屋書店

「生誕こそが、死にまさる真の災厄」とする思想をもとに、痛烈なアフォリズムで迫る本書は、まさにシオランの痛覚で書かれている。読者も理屈で読むのではなく痛覚で読むに相応しい内容。

苦しい時や息詰まりを感じた時、本書を気の赴くままにパラパラめくると、きれい事ではないシオランの筆致に、生きる事の凄惨さが転じて、今生の愛おしさを感じるだろう。

生まれ出ることによって、私たちは死ぬことで失うのと同じだけのものを失った。すなわち、一切を。
P.79

自分の痛覚はこの文章に刺激された。
生まれることによって何を失ったのか。
生まれることは、これから何かを得る道のりではないのか。

しかし、何度もこの一文を読み返し思考を巡らすうちに、私は世の中の一面しか見ていないと気づいた。
仏教には諸行無常という言葉がある。
生まれたものはいずれ滅する、と理解されるが、それは命だけではなく、あらゆる現象だ。そして続きがある。滅したものは生まれる。
常に世界は明滅を繰り返すものである。
そして、人の命も同じように生まれれば滅し、そして滅した命はいずれ新たな命として生まれ出る。
今生だけで考えれば、命は生から死へと一方向だけである。
しかし、あの世(浄土でも、土の中でも)まで含めて考えれば命は円環である。
そう考えると、私たちが生まれて死ぬまで今生では様々なモノゴトや人の縁などを得るが、死と共に多くを失う。
それと同じようにあの世でも、いつか生まれるまでの間に様々なモノゴトや縁を得ているのかもしれない、そしてそれらはこの世に生まれ出る時に失うのかもしれないな、と想像する事が出来る。

もしかしたら、今生に生きている時間の方が刹那で、メインはあちらの世かもしれない。そのような突拍子もない妄想までさせてくれる本だ。

命の営みを円環で捉える事によって、私たちの最大の関心事であり、恐れの対象である「死」という現象に「生」の側面を感じることで、とても受け入れやすくはならないだろうか。
少なくとも私は一方向的な命より円環する命で捉えた方が、自分自身や大切な人の「死」を受け入れやすくなる気がする。
そして「死」を遠ざけて生きるより、受け入れながら懐柔して日々を過ごす方が今を大切に生きられるだろう。

読む人や状況によって様々な刺激を受ける本書だが、何はともあれ自分勝手に読み解釈するのが一番楽しい。

皆様もぜひ痛覚に刺激をいただいて下さい。

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