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お国言葉を見直してみる。

みなさんは自分のお国言葉に誇りをお持ちだろうか。
いわゆる方言である。
私は東北出身なので、学生の頃までは典型的な訛りがあった。
今でも地元の友人と話すときは「んだんだ。んじゃ、そこにいくべ!」となる。
東京に出てきてからは恥ずかしさがあり、自然と抑制されていったが、今改めて考えると方言とは文化であり、守るべきものだと感じる。

先日、北海道でこの様なニュースが巷を賑わした。
「アイヌ語でバス出発進行 車内放送、日本語と併用」
日高管内平取町で5月1日より、町内を走る道南バス(室蘭)の路線・都市間バスで、アイヌ語による車内放送が始まった。温かみのある言葉が車内に響き渡った。

という話だ。
バスの利用者はインタビューで「アイヌ語に触れる機会は今までなかった。言葉をきっかけにアイヌ文化に興味をもった」と語っている。
言語は文化だと思う。
言語の数だけ文化が存在し、考え方の多様性がある。
グローバリゼーションが進み、世界がフラットになりコミュニケーションが取りやすくなった。素晴らしい事である。
他方、ローカルな方言や少数派の言語は忘れられがちだか、こちらも同時に大切に守っていく必要がある。
東京に出てきた時、東京弁ってなんて無駄がないのだろう、と思った。
厳密には東京の方言は江戸弁だから、標準語という事になるが。
標準語は日本語の平均値だから、流れるように誰とでも弊害なくコミュニケーションがとれる。とても効率の良い言葉である。
しかし、それは平均以上でも以下でもない。ふとした瞬間や感情が高ぶった時に出る、その人の方言に人間らしさを感じたり、共感しやすくなるのは、標準語にはない平均以上の何かが込められているからだと思う。

釈尊はマガダ語という言語を使って教えを説いたと言われる。これはいわゆる俗語、地方の方言である。
経典も最初は格式高く、知識層が好んで使用していたサンスクリット語ではなく、プラークリット(俗語)の一種であるパーリ語で制作された。
それは釈尊が、教えを説く時にはその土地土地の言葉で伝えなさい。その土地の言葉、文化を大切にしなさい。という教えがあったからだ。
時代を経ると、状況の要請により経典をサンスクリット語で制作しなければならなくなるが、基本的には土地の言語や文化を壊して浸透させるのではなく、融合しながら新しい価値を提供していくのが仏教である。

多様性が叫ばれる昨今、身近な所で自分のお国言葉を見直してみると、面白い発見があるかもしれない。
金曜日の夜、東京の居酒屋で方々から熱い方言が聞こえてきてら、なんかよがっぺ。

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