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ある小説

僕は今、久しぶりに小説を買おうと書店に来ている。
元々、梶井基次郎の檸檬を買ってやろうかと思っていたのだが、それひとつでは、なんだか寂しいと思った。
暫く考えた後、ジョージ・オーウェルの1984年にすることにした。
しかし、どうだ、いくら探せど目当ての物は見つからない。
一体どこにあると言うのだ、私の性質上、一度決めたものは実現させねば気持ちが悪く寝付けないのだ。
この気持ちは君にも分かるだろう、ちょうど昼飯に出てきたサラダのキャベツの繊維が歯と歯、およそ数ミリであろう所に挟まり、晩飯後どころか就寝まで取れずにいるようなものだ。

檸檬が簡単に見つかっただけに1984年が見つからないとは非常に腹立たしいことだった。
結果一時間半と探したが見つからず、帰宅の時間が来てしまった。
仕方なく、目的外の本だが適当に棚から抜き出した物を檸檬と共に小脇に抱え、会計とした。

家に帰り、ぐっとソファーに体を預け眼を閉じる。
やはり何度思い出しても腹が立つ。
単に見つからなかっただけなのだが、逆にそれだけの事だからこそ腹が立つ。

せっかく買ったのだ、読もう。
しかし、異国の物を食う事に近い感覚がしてしまい、指がページを捲ろうとしなかった。
檸檬であれば情景が眼前にあるかのような、ドラマが脳内で再生されるが、もうひとつは初めの一行を読むことすら出来なかった。

見つからなかった怒りと、自分の愚かさに悩んでいると、ある一つの名案が浮かんだ。

本を燃やしてやろう。

きっとエジソンが電球を、発明した時も同じような閃きの快感を、感じただろう。
悩みは素晴らしい解決策を導き出してくれるのだ。私は自分の天才性に関心した。
暫くの自己満足の後、燃やす準備を始めた。

ベランダには2日前に秋刀魚を焼いた時使用した七輪、中には燃えきらなかった炭が残っていた。

その中に本を突っ込み、上から灯油を少し入れる。正しい点火方法とは到底思えないが、完全なる自己陶酔により一般的な良識など入る余地は一瞬たりとて無かった。

マッチを擦り、七輪に投げ入れる。炎が一瞬で小説を覆う。

それは火に食われ、黒ずんで、別のなにかに変わってゆく、それを見るのは格別の快楽だった。

華氏451度の作り出す炎の舞に満足した私は部屋に戻りもう一度、梶井基次郎の檸檬を堪能した後、最低だが最高の一日に終止符を打った。


あとがき
この話は燃やすところ以外ほとんど僕の体験したことです。書店を探し回っても目当ての物は見つからず結局、レイ・ブラッドベリの華氏451度を買ったと言う訳です。
しかし、今読んでいますが、なかなかに好きな本でした。
偶然の巡り合わせって感じでしょうか。
案外満足です。
ラッキーラッキー

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