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嫌われる勇気 ~Ver.1~(嫌われるのが怖い自分)

皆さんこんばんわ。

遅いタイミングではありますが、先日「嫌われる勇気」を読みました。
今趣味が読書で月に7冊以上読んでる自分にとって、2,3個学べばOKという軸でやっていましたが、読みながらメモが止まらない、さらに泣いたのは初めてだったので文章に起こしたいと思いました。この本は僕にとって人生の聖書的な存在になるような気がしています。それくらい自分にとって衝撃が強かった本です。

感動した理由と過去の紐を少しずつ解いていきたいと思います。
これを読んでもしこの本を一人でも読みたくなったら幸いです。

アドラーさんの中の自由とは?

自由とは「他者から嫌われる(勇気を持つ)」事である。

 皆さんはこの言葉を聞いてどう思うだろうか?僕は体に痺れと寒気が同時に来た感覚だった。僕は今まで人に好かれて、いや承認されて初めて自由があると思っていた。実際、承認されない自分など生きる価値もないとまで思っていた時期も存在する。こう考えてしまったのにはきっかけがある。

周りとのちょっとした違いの過去。

 僕は周りの人に比べて「足にちょっとした違い」がある。世間の言葉で言うと「障害」である。ここでは詳しく述べないが「留学」を通して今はこの足に対してポジティブに向き合えてはいるが、昔は自分の足が憎くて仕方がなかったのだ。その影響のせいか、僕は人の顔をうかがい、自分を押し殺しながら生きてきた。それは自分を犠牲にして相手に尽くし、承認を常に求めていた状態である。承認こそが僕を幸せにし、社会で生きていける要素だと思っていた。なぜなら、この「違い」のせいで嫌われるかもしれない、相手の欲求を満たさないと捨てられると思っていたからだ。
つまり、「他者から好かれる」事が、自分の自由となり、自信になると思っていたのだ。

アドラーさんの自由の定義で一歩、前へ

 私はこの自由の定義のおかげで心が楽になった。
なぜ自分の中でこの自由の定義が納得いったか?
それを説明していこう。
といっても一つのフレーズに帰着していた。それは

誰が自分の人生を満たすのか?

この言葉を聞いたとき、深く考えさせられた。
「他人」が僕の人生を満たしてくれるか?
恐らく満たしてくれない。なぜなら、本人が求めているものと他人の考え方、価値観が全て違う状況で自分の人生を満たしてくれるとは到底思えない。
これが示している答えは、自分の人生を満たすのは結局”自分”なのだ。
逆に言うと自分が満たさない人生は、自分の人生ではないのだ。
我々は他者の人生を満たすために生きていないのである。

どうして僕のような人が生まれてしまったのか?

その理由は単純である。
「自分の人生を人任せにしているから」=「迷う事がない」=「嫌われる事もない」=「楽」なのだ。
つまり「嫌われる自分が怖い」、「楽」という目的を「人の欲求を満たす」という手段で補っていた。いや、逃げていたのだ。

今後について

 僕は今でも「人」が怖い。
僕自身がどう思われているか、嫌われるかもしれない。と思う事も多い。
今後は、この事に気づいたからこそ、少しずつ解決していきたい課題だなと思いました。
その第一歩として怖い(下手)ながら、文章に書き上げました。

最後に

「人生を満たしたいならば、自分で満たすしかない。」という言葉の中には、他者に依存するのではなく、自分の心に従い(他人に嫌われたとしても)行動していく事が自分にとっての幸福感につながり、他者に伝染していくもののように感じたのだ。
この本を読んで響いた言葉は2桁存在する。
僕はこんなに俗に言う「神本」に出会ったのは久々だし、この出会いを大切にしたい。
ちなみに前の「神本」は・・・「メモの魔力」です。笑
ありがとうございました。

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