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ナポレオンスタイルの彼。

彼に左腕がないことを知ったのは
出会って2日目のことだった。

サメのようなメガネをしていて、無口で、とても背の高い彼は(20代後半だろうか?)いわるゆるインテリタイプの外見をしていた。

彼は店の事務の仕事をしていた。売場で仕事をしている私とは、ほとんど顔を合わす機会はなく、そういう彼がいることも、それまで私は知らずにいた。

そして、たまたま、事務的な手続き(給料の振込み先の変更とかそういうもの)のため、書類を提出しようとしたところ、いつもの事務のおばさんから
「あぁ、それね。わたし今、手が離せないから彼に頼んで」と言われた。

そして、事務室の奥から出てきたのがその彼だった。彼はとても無表情に右手で私の書類を受け取った。左腕をナポレオンのように隠していたのは変だなぁと思ったけれど、そのとき私はあまり気にはしなかった。

その翌日に私は事務室に呼び出された。
出てきたのは、あの彼だった。

「すみません、ちょっと書類に不備がありましたので・・・」書類に目線を落としたまま、彼はそう私に言った。見たら確かに書くべきところが、空白のままだった。

私は”すみません”と頭をかきながらボールペンを用意した。ポケットの中のボールペンを探しながら、ふと、彼の白いカッターシャツの左腕部分が、変な具合にしわになっていることに気がついた。

それではじめてわかったのだ。ナポレオンスタイルのその左腕は、どこにも存在していなかった。それはこんな近くで見なければ、とても気づかないものだった。私は一瞬、あっ!と声をあげそうになったが、それが正しくないことをゼロコンマ3秒で私の頭が判断をした。

私は書類に自分の住所を書いていった。すると、彼は小さく私にこう言った。「あ、その住所、昔、ボクが子供の頃、住んでたところなんですよ」「へぇ、そうなの?僕はまだ住んで3ヶ月しか経ってないけど」と私は答えた。(その頃、私はその店に転勤してきて間がなかった。)

それが彼とのはじめての会話でもあった。そして、はじめて彼が見せた自然な笑顔でもあった。それから彼は、私に何度か話しかけるようになった。「ボクは午前中勤務のみだから、あまり、ここの従業員さんとは会う機会がなくて・・・」何か言い訳でもするように、彼は私に話してくれた。あまり表情のない彼だけれど、その声は、少年のような素直さがあった。

彼は外見や態度に反して、本当は、やさしい心の持ち主なのだろう。

話しをしてみてはじめてわかるのが、たぶん、彼の性格そのものだった。その点で言えば、今まで随分と損をしてきたのかもしれない。それが、まるで悪循環な無口の原因だとは思いたくはなかったけど、彼のその苦しみは、私にはとても想像することは出来なかった。

彼の今までの人生は、彼しかわからないことなのだ。

「ボクはあまり夢というものを見ないんです。ボクには出来ないことが多いから。でも、その反面、夢にすがりたくないんです。自分を言い訳にしたくはないですから」

いつのときだったか、何かの会話のついでのように、彼はそんなふうに語ってくれた。不思議な気持ちで私はそれを聞いていた。

私はなぜか最後まで、彼にその腕のことを聞かなかった。彼も一度も、そのことにふれることはしなかった。たぶん聞けば、彼は理由を話してくれたのだと思う。でも、それは二人にとっては、別に必要なことではなかった。

ある日のこと、彼は店の大きなプリンターのインカートリッジを交換しようとしたとき、プリンターを落として壊してしまった。片手で無理をしてしまったようだった。

たまたま近くにいた私と事務のおばさんとで、あちこちに飛び散ったインクで汚れた机を拭いたり、機械の破片を片付けたりした。そして、彼も何も言わないで、黙々と一緒に片付けをしていた。

黙ったまま、何か言い様のない痛みに耐えているような彼に「気にすることはないよ」と私は何気なく言ったのだけれど、彼は黙々と雑巾で、机を拭きつづけるばかりだった。

思えばその2週間後だった。
彼が仕事を辞めてしまったのは。

その理由は、誰に聞いてもよくわからなかった。連休中だった私は、彼とはあのときが最後になってしまった。まさかあのことが原因で、辞めたとは思いたくなかったし、そんな彼だとも思っていない。

その在職期間の2年間は、もしかしたらそれが彼なりの次のステップへの、ちょうどいい引き際だったのかもしれない。

ただ、あの”夢を見ない”という彼の言葉が、まるで哀しい魔法のように、私の心の片隅にいつまでも消えずに残っている。それは誰の目にも届かない、かつての彼のように思えた。

私は今も思うのだけど、それでも彼は
”見えない夢”を追いつづけているのだと思う。

どこかできっと、あのナポレオンのように。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一