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遠回りなごめんなさい。
ある人とケンカをしてしまった。
言って欲しくない言葉を、その人が使ってしまったから。私の心は簡単に棘のような壁を作った。向こうもその突然の壁に、ひどく傷ついたようだった。本当はいつもは笑いあえるほど、信頼しあえる仲なのに、どういうわけかこのときは、いくつかの偶然が重なって、どうにも後戻りも出来なくなった。
ポツンと心がひとつ漂った。
こんなとき無情なのは、時計の針なのかもしれない。そのまま時だけが音もなく流れてゆく。やがて、どこかで二人がすれ違う。互いにひと言も喋らない。本当は足を止めたいのに、人ごみの交差点のように、流れに思うように立ち止まれない。
それを何度か繰り返すうちに、次第に心は虚しくなった。
本当は伝えたいこと、手のひらにいくつ用意しても「ごめんなさい」という言葉では、どこか小さな違和感があって、子供みたいな言葉にも見えて、大人になると、それがどうも思うように扱えない。
まるでシャボン玉がうまく作れなかったときの寂しさだ。ストローから形にもならず、生まれもせず、しずくがただ、涙のように、こぼれ落ちて消えてゆくだけ。
こんなとき映画なら、ここぞというシーンがやはりあるのだろうけど、日常では、そんなにうまくタイミングはやってこない。現実はいつも、惨めでとてもかっこ悪い。そんなかっこ悪さの中で、やがてこんな私たちには、話すことなどお互いに、もう何もないような気さえした。
小さな痛みが波のようにくりかえす。その痛みさえ気付かなくなれば、私の中の何かがひとつ、また、消えてゆくのだろう。それはアルバムに貼り忘れた、思い出の写真と変わりはしない。
数日間、自分の不甲斐なさにやり切れず、どうしたものかと悩んでいたら、いつもの場所にその人はいて、そしていつものように、すれ違おうとしたとき、その人は静かに私に言った。ほんの少しかすれた声で。
「・・・おはよう」
なんてことだ・・・。
こんなにも簡単でいて
忘れていた大切な言葉があったなんて。
私も同じ言葉をくりかえす。
「・・・おはよう」
それは不器用な私たち大人の遠回りな「ごめんなさい」。
たぶん、それでも私たちは、子供の頃にはもう戻れなくても、心の中では子供みたいに、頭をかきながら手を伸ばして、握手なんかしたんだと思う。
おはよう・・・
そして、ごめんなさい。
やっぱりあなたがいてくれてよかった。
最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一