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郵便ポスト#2 <小説> 全12回(予定)

目安:7分


1993年


 平日の月曜日、水曜日、金曜日に必ず十六時前になると一台の黒い軽自動車がわしの後ろに止まる。郵便物集荷の十六時半のアイツが来る前の時間帯だ。黒い軽自動車を運転しているのは、一人の母親。彼女はまだ、車からは降りてこない。たいてい運転席に座り、なんらかの文庫本を読み始める。家族のお迎えかと思いきや、それとも少し違う。

 母親が十分、二十分と本を読み続けると、やがてやってくる。黒いランドセルを背負った半ズボンを履いた少年が助手席の窓をコンコンと叩く。母親は少年に気づくと目つきが変わる。助手席のドアを開ける。少年はランドセルを降ろし、後部座席にランドセルを置くとそのまま助手席に座る。

 母親は、あらかじめ用意していた。ドーナツとコーラを少年に差し出す。少年はドーナツをほおばる。ドーナツ二回に対して、コーラ一回の割合で、お腹に入れていく。

 その間、運転席の母親は、助手席に座る子供に向かって何かを確認するかのように、または何かを言い聞かせるかのように、しゃべり続ける。

 少年はドーナツとコーラを口にしながら母親の言うことに頷く。何かのスポーツで、選手がコーチのアドバイスを黙って聞く。そうだな、ボクシングのラウンド間で、コーナーでイスに腰掛け、セコンドのアドバイスを聞く。そんな雰囲気だ。

 やがてドーナッツを食べ終え、コーラを飲み終えると、次のラウンドの開始を知らせるゴングがなる。少年は助手席のドアを開けて車の外へ。母親もそこで初めて車の外へ降りる。

 後部座席を開け、ランドセルとは別の荷物を持つ。それはランドセルよりも少し横長の青いリュック。それを少年に背負わせた。もう一つ、リュックとは別に、小さな荷物を手に持たせた。ワシは、しばらく日数が経ってから、それが少年の夕飯になるお弁当だということを知った。

 少年は、母親の顔を見て、軽く右手を上げ、小さく手を振る。母親は「がんばれ」と言いながら、それも軽く二回手を叩いた。少年は一度、後ろを向いて、そのまま東口の改札へと消えていった。駅のホームに上がる階段で見えなくなると、母親は黒い軽自動車の運転席に戻る。そして走り去っていく。

 十六時半の郵便物の回収のあと、ワシは一日の仕事を終える。暗くなり、朝、出かけた人が帰ってくる。一人一人の表情を見ると何か落ち着くものがある。朝だけでなく帰りも同じ時間にきっちりと帰ってくる人、曜日によって規則性のある人、全くバラバラの人。

 ワシは自分の仕事を終えているから、夕方から夜にかけてのんびりと、この街を眺めている。昼間も見ているが、ちょっと緊張感が違う。みんなそうだ。どんなに嫌なことがあっても、帰ってくる人の表情はどの人も、ゆとりが感じられるのだ。

 充実感だったり、明日も頑張ろうという気持ち。明日こそはという気持ち。いろいろあるかもしれないが、とにかくみんなが安らぐ場所へ帰ろうとしている。そんな空気なのだ。

 夜が深まり、駅の周辺の店のシャッターが閉まり落ち着いた頃、またあの黒い軽自動車がわしの後ろに止まる。運転席に乗っているのはあの母親。夕方と同じように、今度は車内灯をつけ文庫本を読む。

 二十一時五十分の下り電車で必ず少年は改札を出て来る。改札を出ると必ず小走り、毎回。同じように助手席の窓をコンコンと叩くと、母親はドアを開ける。助手席に少年が座ると、母親は読みかけの文庫本を片付ける。

 母親がその場で少年に何か言うと少年は下を向く。そして小さく首を振る。ちょっと目が大きくなり少年の表情を覗き込む母親。首を振る少年。さらに下を向き小さく頷くと、白い用紙をリュックから引っ張り出した。白い用紙を受け取り、母親は内容を確認する。再び母親の目が大きくなると、少年はさらに下を向いたすると今度は母親が、溜息をついて下を向いてしまった。

 ワシはまるで、セリフのない映画をみているような感覚だった。母親がさらに深呼吸をしたように見えると少年に何か言う。少年は下を向いたままだが、今度は大きく頷いた。それを確認すると黒い軽自動車は走り出した。

 それが月水金と週三回、ほぼ毎週、繰り返される。

 月に一度だけ、日曜日にその黒い軽自動車は母親が運転して、助手席に少年を乗せて駅へやってくる。やはり、少年はランドセルよりも横長の青いリュックを背負い、母親が用意したお弁当を持ち、改札を通り出かけていく。

 そして夕方、再び黒い軽自動車が、わしの後ろに止まる。運転席には母親。文庫本を読み少年を待つ。電車を降り改札を出ると、平日と同じように走り出し、黒い軽自動車へとやってくる。助手席の窓を軽くコンコンと叩き、乗り込む。少年をねぎらう表情で母親は迎える。そして走り出す。

 季節が夏になる。梅雨があけ、郵便物集荷のアイツの体臭が強くなる頃になると、月水金の週三回というその母親と少年のパターンが変わった。ちょうどワシの腹の中に暑中お見舞い関係のハガキが多くなる時期だ。

 母親が運転する黒い軽自動車が、朝のラッシュの時間帯にやってくるようになった。もちろん少年を乗せて。ロータリーのワシの近くに止まる。少年は助手席から降りると相変わらず青い横長のリュックを背負う。

 母親は運転席から降りると、車の周りをぐるっと周りこみ、少年の所へ行く。手に持っている、お弁当の入った小さなバッグを、少年に渡す。  

 何か力強く少年に言うと、少年は笑顔も見せずに大きく頷いた。少年がクルッと体を返すと、改札口へと走り出した。少年を見送る母親は、改札を通り、ホームへ上がる階段へと消えるのを確認すると、運転席へ戻る。そして走り去っていく。

 夕方になると、平日とほぼ同じ時間帯に、母親の運転する黒い軽自動車がやってくる。そして止まる。これも平日と同じように、母親は運転席で文庫本を読む。違うのは、少年がランドセルを背負って、歩いてやってくるのではなく、電車に乗って、駅の改札から出てくること。

 少年は、改札を出て母親が待つ黒い軽自動車を見つけると小走りでやってくる。助手席の窓をコンコンと叩き、母親は読む本を片付ける。少年が乗る。ハンドルに手をかけながら、母親が少年に何かを尋ねる。

 少年は母親の顔を見て、軽い笑顔を見せ頷く。母親はほっとしたような表情で黒い軽自動車を走らせる。夏の間中、一か月間、しかも連日、そんなやりとりの繰り返しだった。

 夕方の日差しが少し軽くなると、ワシはそろそろ夏が終わることに気が付く。少年は毎日のように母親の車でやってきて、夕方改札から出てくるそんな生活だった。

 その日も、少年は改札を出て黒い軽自動車を見つけると走り出した。背負っている青いリュックが左右に揺れる。その揺れを抑えるかのような少年の走り方だった。
黒い軽自動車にたどり着く間際で少年は足を止めた。振り返る少年。

 少年と同い年ぐらいの男の子たち三人と、付き添う三人の女性。女性たちはそれぞれ男の子たちの母親だろう。男の子たちは三人とも、ピンストライプの白い野球のユニホームの上を着て黒い野球帽を被っていた。

 そのうちの一人の男の子がやってくる。遅れてもう二人の男の子が寄ってきた。ワシは三人が着ている白いユニホームと黒い野球帽は、隣のC市を本拠地としているプロ野球チーム「Cマリーンズ」のユニホームのレプリカだとすぐにわかった。

 黒い野球帽を被った男の子が手を振り、少年のところにやってくる。野球の格好をした三人は真っ黒に日焼けしていて、笑った時に見える歯の白さを引き立てた。

 驚き、少し三人の勢いに押されてしまったような少年の表情。三人の男の子のうち一人が、頭に被る黒い野球帽を指さす。別の男の子が、自分が着ているCマリーンズのピンストライプのユニホームをつまみ、「どうだ」と自慢気な表情。三人目の男の子が、少年に手を出して、軽く手招きした。

 端から見ているとものすごく楽しそうな四人の男の子たち、ただ駅の改札を出てきたばかりの少年は、困惑した表情。三人の男の子たちは何度も何度も手招きをして少年を誘う。 

 そしてそれぞれの母親を呼んだ。きっと少年の名前を呼び、少年がいることを知らせたのだ。困惑している少年は、黒い軽自動車から出て来ようとしない母親を見た。少年の母親は少々、厳しい表情で成り行きを観察している。三人の男の子たちの母親たちが近づいてきた。それに気がつくとようやく、少年の母親が、黒い軽自動車から降りてきた。厳しい表情が途端にそれと分かる作り笑顔に変わる。

 少年の母親は、驚いた顔を作り、三人の男の子たちの母親のところへ行く。手に財布と車のキーを持ち、少し大げさに「陽射しが眩しいわ。」と言いたそうな表情で何も持っていない左手をおでこの下にあて日除けを作る。車の中で様子を見ていた厳しい表情とは変わって、完成度の高い愛想笑い。

 男の子たちはいつの間にかそれぞれグローブをはめている。近い距離で一つの軟式ボールを下手から投げ合う。グローブのない少年は素手で軟式ボールを取り、隣の男の子へ回す。

 母親たちは、少年の母親にチケットの束のようなものを見せ、しきりに少年の方を向き、手招きをする。愛想笑いを崩さずに、腕を組み少し悩む。

 ワシにはなんとなくちっとも迷ってなんかいないと分かった。少年は、少し懇願する表情で母親を見ていた。男の子たちの一人が自分が被っているCマリーンズの黒い帽子を少年の頭に載せた。別の少年がグローブを差し出す。

 少年がどんどん笑顔になる。男の子たちの母親は、なんとか同意させようと少年の母親を促す。もうワシには説得にしか見えなかった。

 やがて少年の母親は日除けの左手を下ろし、腕を組む。そして少年を見つめながら首を振った。今度は手を合わせ、愛想笑いから「ごめえ〜ん。」という表情に変わる。

 懇願した表情の少年は、その様子を見て残念そうに帽子とグローブをそれぞれの少年に返した。少年の母親が促すと、軽く手を振り男の子たちと別れた。助手席に乗るとき、男の子たちが大きな声で少年を呼んだ。

 笑顔で手を振る少年と男の子たち。同じように男の子たちの母親が手を振ると少年の母親も手を振った。そして軽くお辞儀をしたのが印象的だった。

 黒い軽自動車がロータリーを出ると、Cマリーンズのピンストライプのユニフォームを羽織った男の子たちとその母親たちは、改札から電車に乗るためにホームへ向かった。

 1991年、プロ野球Cマリーンズが、F市の隣のC市に本拠地を移した。その二年後のことだ。

 ワシも野球は嫌いではない。むしろ大好きな部類だ。


<つづく>

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