光芒と錯覚する檻


僕はクラナンできない。

視界の世界が固定される。
まるで眼球を接着されたように、ただただ目に映る世界を固められてしまうような、そんな感覚。
目のやり場がない、のに、目は閉じない、閉じれない。まぶたの筋肉までもがこの空間に支配されてしまうのである。
どこを向いても人が沢山いて、女も男も沢山いて、そこでは同じ空間を共にしているというだけで、見ず知らずの男女同士が簡単に会話することが許される世界が広がっている。僕のすぐ脇にいる暇そうにしている一人の女、今目の前を横切った二人組の女、後ろでハイネケンを片手に男達とサークルを作って踊り狂う女。この空間において、彼女らに介入する事は、当然許されている。むしろそういう場所だ。けれど、僕が会話できる人も輪に入ることのできるグループもいない。出来ないのであった。
闇奥から幾重にも網膜を貫いて行く閃光と空にいることを錯覚させる雲煙の空間で、踊り、飲み、喋り、近寄り、見つめ、立ち尽くし、奢り、傲り、彷徨い、繋ぎ、狂い、重なり合いと、各々様々に状態を作った人々が、僕の視界に入り続けている。僕はその状態をただただ維持しながら、光照らされていない空間の闇と煙を吸い込み続けている。呼吸するたびに、みぞおちあたりに黒いものが溜まっていくのを感じる。それを感じることしか出来なかった。
僕はこの場に圧倒されわけではないようだった。声をかけるわけでもないから、当然拒絶されて悲しくなるなんてことにもなりえない。沢山の人がいる中に孤独を抱いていた。

この時の僕はある事に気がついた。「クラブでのナンパ」は、いつもの僕の習慣である「ツイッターをしている時の状態」と、どうやら酷似しているということに。

目に過度な光を見つめながら、僕はいつもその場で内省をし、その場で指を走らせる。周りの音は入ってこない。それもそうだ、僕の中に入ってこない、僕がわかるはずもない、波長に会うはずもない、そもそも趣味でもないそんな雑踏にしか感じぬ音だから。だから僕は無視をしなくてはいけないし、場合によってはそれに無理にでも乗っている風を装わなければならない。僕を視界の世界に閉じ込める。耳から僕の感覚を視界のみに固定化されている。

ツイッターをしながら僕は永遠に終わらない内省を繰り返す。実生活で、タイムラインで、気がかりなことを僕はすぐさまツイートする。それらすべての「気がかりな事」というのは『僕自身のこと』だ。僕は僕自身と文を書いて対話をする。人に向けられたものではない。なのに僕は人が目につくところに書き込む。いいねリツイート、あるわけがない。あんな長文、誰が読むのか。そんなことはわかっている。けれど1000人も見ている。日々減り行くフォロワーの数なんてそっちのけで、僕は公開された場所で内省をぶつぶつぶつぶつとつぶやくことをやめられない。側から見たら痛い奴にしか見えない。僕が見てもそう思う。近寄りたいとは思えない。何故だろう。わかってはいるのに。まったくもって非生産的。こんな無意味なことを、何故僕はしてしまうのだろう。

僕はクラブを歩き回る。ここはツイッターの世界か?いいや違う。クラブ。来るたび視界が固定されてしまい、体が動かず、喉から声が出せなくなる『クラブ』という場所。何故だか、ツイッターをしている時のように『内省せざるをえない』ところ。女に話かけたいのなら今すぐここを出てストリートナンパを始めればよい。けれども、何故かこの場から僕は依存するかのように離れられない。フロアをうろつきながら、ぼったくり価格の酒を一人で飲みながら、この空間で永遠と自問自答を繰り返している。何故だ、何故だと自分に声をかけ続ける。声をかけろ、音に踊れ、頭を振れ、ナンパしろ。そんな声が僕の中で聞こえてはいるのに僕の体と喉はどんどん硬直して行く。僕はただ、『こんなにも開かれた人がいるのに孤立してしまう自分』を確立し、みぞおちに黒いものを溜め込むだけのことをしていた。惨め哀れさを溜め込むことに僕は依存していた。蠢く青赤緑の閃光は僕を内省にへと閉じ込める牢のように見えた。

何故ツイッターをしてしまうのか、何故クラブで声をかけられないのか。僕は光が網膜を突き刺すような環境でする内省がどうやら好きらしい。光を見つめ、そこで内省に内省を重ねて、心を暗くする。どす黒い、最低の気分を作る。やらなきゃいいのに、何故か深夜にツイッターをしてしまう。できないならやらなきゃいいのに、何故かクラブでナンパをしようとしてしまう。そうしてまた、暗い気持になる。それの繰り返しだ。
僕は暗い気持ちになることに依存をしているのだ。人がたくさんいるところで、一人暗い感情になるということに薬物性中毒快楽を見出している。

暗い感情を止める術は、たいそうくだらないものだ。飽きや眠気などがそれらの暗い感情の加速を摩擦をかけるようにしてやめさせる。言ってしまえば時間的解決。暗い感情を辞めさせるのは明るい感情では決してなく、非感情的な生理的現象でしかない。生理的現象でしか僕を内省の檻から解放する術がない。生理的現象でしか僕は対処していないから、また同じことを繰り返す。

もう内省をしたくない。
けれどしたくなる。
内省は悪いことではない。
いいことのはずだ。
けれども僕は暗い感情に支配されてしまう。ということはやはり僕にとって悪いことだったのだろうか。しかしもうこの内省は癖ともなってしまっていて、直すことはできないものかもしれない。

僕は内省の牢から解放されるのではなくて、どうせならば、内省の檻の中で、楽しく生きてみたい。明るい感情を生み出したい。そんなこと、可能なんだろうか?と思い、クラブ一帯を見回す。いる。いる。いる。にこやかにナンパしてたりそれに応じたり、音に乗ったり踊ったりしている。僕も彼らに合わせて首を振ったり肩を揺らしたりする。ぎこちない。合わない。喜べない。楽しくはならなかった。
同時に僕は、暗い気持の人たちを探していた。今の僕のような内省の檻の中で苦しんでいる人は誰かしらいるはずだ。いる、いる、いる。楽しんでいるように見せて、どこか寂しげを浮かべている女、僕のように地蔵している男。当然いる。ならばよし、声をかけに行こう。一人の女に近寄る。喉を開く。口が開かない。体が固まって行く。頑張ってみようとする。やはり声をかけられない。


ツイッターでは、それっぽいことを書くようにしている。しかし、1500人フォロワーがいるのにもかかわらず、いいねがつくツイートは10ツイート中1つくらいだし、いいねがあっても3つまでが限度だ。そして日に日に減ってゆくフォロワー。徐々に僕は必要とされなくなってゆく。そんな現実に慣れた。悲しかったのに、その事に僕は慣れてしまった。
クラブで上がらない、楽しめない、声をかけられない僕になんとなく似ている感じがした。


内省の牢獄で僕はいつまでも居座っている。牢獄なのに、そこから抜け出す手段は実に簡単らしい。というか、よく見たらそれは牢ですらない、檻ですらない。出口まで直通のただの洞穴でしかない。Exitの光はそこに見えている。しかし洞穴の奥底で僕はじっとしている。動きたくないらしい。誰もが見向きもしない闇奥底で、光を見つめながら、ぶつぶつと呟くことをしているのがどうやら好きらしいのだ。
僕はもうそこから抜け出したい。なんやかんやで寂しいのかもしれない。けれどそんな寂しい気持ちを、どうやら僕は諦めさせたいようでもあった。光は物体をすり抜けるものだ。物体の移動は光によって干渉されることはない。だが僕はその光を、閃光を、柵に見立てて、動けなくさせられていると思っていた。メタ思考が僕の思考を保守的にさせようとコントロールしていたようだったのだ。内省の檻から出るにはまずはナンパそのものを諦めて、そしてスマホの電源を落とすところから始めるべきなのだ。

正直、
動きたくない。
けれど変わりたい。
人と繋がりたい。
女として生きてたら幸せだったかもしれない。僕は男だ。動かないかぎり、人は来てはくれないし、自分から話さなければ、誰とも関わりを持つことはできない。怠惰な歩みを選ぶなら、孤独感にむしろ喜びを見出すべきなのだろう。孤独を快楽と認識した方が楽になる筈だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?