「現役東大生だが上野千鶴子の祝辞はゴミだと思う」への応答

先日上野千鶴子さんが東大の入学式で述べられた祝辞について、現役東大生を名乗る人が書いた「現役東大生だが上野千鶴子の祝辞はゴミだと思う」という記事を読みました。

私は上野さんのメッセージ(全文はこちらからどうぞ)に共感するところが多かったので、見出しを見てびっくりしたのですが、読んで見ると、言葉遣いは乱暴ですが適格な指摘もいくつかあり、それなりに考えて書かれてあることが分かりました。

しかし、後半のいくつかのコメントには的外れなものもあったので、私なりのリアクションを書いてみました。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

↑だからなんだよ。ここから得られる教訓って何?

この世は、力を出し切れる環境にいる人、頑張ったら頑張った分だけ成果を出すことができ、その成果を正当に評価して貰える人ばかりではないということです。頑張ろうと思ったら頑張れる、努力が必ず報われるという人は、その時点で恵まれているということです。これは、恵まれた環境にいる人にはなかなか気づけないことです。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

↑恵まれない人を助けることに繋がらない学問やっちゃいけないの?ブラックホール撮影しちゃだめ?ニュートリノ観測しちゃだめ?

ブラックホールの撮影、ニュートリノ観測、大いに結構。それら最先端の研究に使われた技術、例えば膨大なデータを解析する技術は、やがて応用されて社会をより豊かに、暮らしやすくする可能性を秘めています。しかし、技術とは諸刃の剣です。まさにデータ解析技術などは、それを実装する人間の差別意識をそのまま受け継いでしまうことが知れられています。応用の仕方を間違えれば、差別を助長し、格差を拡大させる危険性も持っているのです。ですから、そうした技術を研究して世に出す術を持っている人たちは社会的弱者の立場から見た世界を知る必要があり、それを元に舵を切ることが重要なのです。

そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

↑「環境と能力に恵まれた東大新入生はそれを恵まれない人々(=弱者)を助けるために使いましょう。」と述べた後で「弱さを認め生きましょう、フェミニズムは弱者が弱者のまま尊重されることを求めます。」と締めるの、結局東大生に弱者であって欲しいのか弱者を助ける存在であって欲しいのかが見えてこない。弱者を助ける存在もまた弱者で、だから他の弱者に助けてもらいましょう。ということなのかな?全員弱者なら女子受験生の話をした意味は?

↑まずこの弱者って特に女性を指してるの?だとすれば女性は謂れなき差別を受けていてそのために被害を受けているという話だったよね?てことは女性は謂れなき差別を受けたままで尊重されるべきってこと?意味不明じゃない?

これは私も分かっているつもりで分かっていなかったので、この東大生に感謝です。この「弱者が弱者のままで尊重される」ということは、こちらで上野さん自身が詳しく説明されています。

ここでいう弱者は、女性に限らず、高齢者や障害者などあらゆる弱者のことです。多様な社会的弱者の問題に共通することは、「がんばって社会的強者になること」が解決方法にはならないということだそうです。

また、女性は社会的弱者の中でも強者になる可能性は高い方ですが、それでも男性と女性には妊娠・出産をする/しないという非対称性があります。しかし、女性がそのために不利益を被る社会とそうでない社会がありえるわけで、不利益を被らない社会では女性の「違っていても差別を受けない権利」が保障されるのです。つまり、弱者であることと、差別されることは切り離して考えることができるということです。

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