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インディアンの儀式、スウエットロッジ

思い出話になる。
 私は、1988年にあったランニングで、広島から北海道の幌延までずっと参加していて、それで初めてデニス・バンクス氏に出会った。
日本山妙法寺尼僧の純さんにも。
 そこで、インディアンに触れた。そう、触れただけ。
初めてのスウェットロッジは和歌山県の龍神村でだった。
ゴール地点の幌延でもあった。幌延では、アイヌの長老の方による儀式と純さんによるお題目お祈りも行なわれた。
私はその時、デニスのこともAIMのことも儀式のことも日本山のことも、なぁんにも知らなかった。 私が、より知っていくことになるのは、その時のランニングが終わってからだった。
 その時は、まだ記録を残しておくことにより関心があって、カメラ(ムーウ゛ィと、スチールも)を覗き扱うことが好きだった。 それで、今の前橋弁天村の村長にムーウ゛ィ8ミリカメラをかりて、ずっと撮影していた。  ランニングが終わってから、『ホピの予言』を創った宮田雪さんが、このランニングのビデオ作品を制作して、私が撮影した映像をいくつかつかってくれた、というか、その編集作業に私も少し参加お手伝いした。そのため、 どこにどんな映像があるかをチェックしておくために、私は自分が撮った映像を何度もみることになった。
それで、あーここでデニスがこんなこと言ってたとか、改めて追体験した。
それから、本を読むことになった。

そして、1991年、初渡米。この時は、カナダでのアメリカ大陸横断セイクレッドランがあり、私は半分から以降参加のため、LAからウィニペグへグレハンバスでむかった。
この時ももちろんスウェットロッジがあった。マニトバ州のえらいど田舎。夜で、もぉ~どこだかなんだかワカランようなとこだった。
翌1992年も渡米。
アラスカからNMのサンタフェまでのセイクレッドランがあり、私はコロラド州デンバーから参加。このセイクレッドラン参加中にスウェットロッジはなかった、と思う。その後、レンタカーでネバダ核実験場へ、それからグランドキャニオンを経てナバホ居留地へ。
BigMt.の方に一ヵ月程いて、それからNM州よりの方へ移動。そこに、当時1988年のランニングが縁でインディアン男性と結婚した日本人女性がいて、そこを訪ねた。そこでドライスウェットを体験。つまり、まさにサウナ。水はかけない。しかもスウェットロッジじたい小さい、円錐形。儀式というより、日本でいうとこの銭湯みたいな雰囲気。なにしろ水が貴重な場所なのだ。これはこれでおもしろかった。
それから東へ。NY州州都アルバニーから東のマサチューセッツ州境に近い村、グラフトンにお寺を構えておられた純さんの所へ行った。
この時、純さんはカナダのケベックよりも北の方、セントローレンス川河口の村への平和行進を計画されていて(ケベック州の方からアメリカ東部に電気が送られてきているが、新にケベック州の方に計画されてるダムが造られたら狩猟を主としているインディアンたちの生活が脅かされ、そのダム建設への抗議として)、結局私もこれに参加することになった。 
その、セントローレンス川河口の村セティール辺りで、スウェットロッジがあった。 これにはぶったまげましたね。なぁんで、こぉんなさっぶーいとこでスウェットロッジやるんかねぇって・・
 1993年二月に帰国して、南信州の大鹿村に住み着いた方と再び縁が繋がり、その人の主導による大鹿村でのスウェットロッジに、以後何度か参加。 大鹿村での初めてのスウェットロッジは、冬だった。
 龍神村でのわが人生初のスウェットロッジの時もそうだったけど、この冬の大鹿村でのスウェットロッジでも、終了後、私はぶっ倒れてしばらくは動けなかった。

 1995年に、また日本でセイクレッドランがあった。
これは、北海道から日本海側を南下、出雲を過ぎてから広島へ、ついで長崎がゴールだった。 スタートは利尻島で、ここでスウェットロッジがあった。  私は、利尻島一周後、稚内でランニングチームと別れ、いったん帰宅してから、秋田県能代で再参加、以後長崎まで。 

 ・・2001年、私はまた渡米した。 やはり、LAからミネソタ州ミネアポリスまでグレハンバスで行って、それからリーチレイク傍のデニスの家を訪ねて、その後ベミジからSD州ウーンデッドニーへ行き、 ベミジに戻ってそこからグラフトンへ行った。グラフトンのお寺に居るときに、あの9.11事件がおきた。  純さんは、すぐにもお断食ご祈念に入り、私も断食し、それからスウェットロッジがあった。 グラフトンのお寺の地主さんの家にその時住んでいた白人一家の主人(といってもまだ若かった)は、アルバニーにあるフリースクールの先生だったが、ND州のシャイアンリバー居留地へ何度か行ったことある人で、パイプキーパーだった。 その家の庭でスウェットロッジだった。これも忘れられないスウェットロッジだ。

  2006年にも渡米。
この年、2008年のロンゲストウォーク30周年のプレイベントとして、アメリカ大陸横断セイクレッドランがあり、これに純さん発願の平和行進がジョイントして、同じコースをランニングと平和行進があった。 これに、SF(アルカトラズ島)から参加、DQ大学まで車移動、ここからスタート。私はオクラホマ州まで、約一ヵ月参加。
オクラホマシティ郊外の平野、とある家の庭でスウェットロッジがあった。 遠くコヨーテの鳴き声が聞こえる夜、スウェットロッジは深夜まで続いた。

  ・・あ~~~。スウェットロッジとは?どーいうものかを書いとこうかと思ったのだった。
(;^_^A

 
    正直なとこ、スウェットロッジ体験がまだ浅い頃、なぁんで日本人がスウェットロッジなんだぁ・・?!って思って、、違和感あった。
なぁんでインディアンのまねごとすんねん?と。
 スウェットロッジの中で、自分のことではなくて(自分のことの祈りはあかん)、祈りのラウンドがあるんだけど、なぁんかカッコいーことばぁっかいってぇみたいな人もいたし、、 そん時のいってることと実際とじゃなぁんか違うんでない?と。)^o^(  スウェットロッジを共通体験したからといって、その人とより親しくなれたかといえば、・・・・  ま、私はドンくさいしぃ)^o^( 

  今は、、こんなふうに思っている。
 その行為、その時その場の祈りの思い、それが大事なんだと。  
 他のことは些末。
どーでもいいとはいわないが。 
 スウェットロッジじたいは、平原インディアンの儀式と理解してて、インディアンたち全部族に共通の儀式とはいえないだろうと思っているが(たとえば海岸に住む漁労の民や農耕インディアンたちにスウェットロッジはあったかな?)、アメリカ・インディアン・ムーウ゛メントにおいて、サンダンスと共に、インディアンであることの誇りと自覚を呼び起こす、重要な行為なのだと思う。だから、あぁんなさっぶーいセティールあたりでもスウェットロッジをやろうとする。
 では。日本では??

私は、、インディアンを通して、日本人を、日本を考えさせられている。

今も。

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