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聖書を読めばキリスト教がわかる?

 キリスト教について知りたいなら、聖書を読めばいい。そう思っている人は多いと思います。しかしあえて乱暴な言い方をしますが、これはとんでもない大間違いです。

 そもそも聖書は、そう簡単に読めるような本ではありません。例えば現時点で最新の日本語訳聖書である「聖書協会共同訳」の場合、上下二段組にびっしりと文字が印刷された状態で、旧約聖書が1478ページ、新約聖書が467ページあります。合計1945ページ。これを全部読み切るのに、いったいどれだけ時間がかかるでしょう。

 仮に聖書を全部読み切ったとしても、それでキリスト教が理解できるわけではありません。キリスト教の基本的な教義は、聖書を土台にして、何百年もの長い時間をかけて成立したものです。長い時間がかかったのは、聖書から生まれたさまざまな解釈のうち、どれが「正しいキリスト教」と言えるのかについて、なかなか決着が付かなかったからです。

 キリスト教は1世紀に誕生した宗教です。旧約聖書はそれ以前から存在し、新約聖書に含まれる各文書は、遅くとも2世紀初頭には全て書かれていました。しかし聖書を前提に「正統派の教義」が一通り確立するのは、それよりずっと時代が下った5世紀以降になってからです。

 長い長い議論の果てに、キリスト教の中で「正統派」と呼ばれるグループの聖書解釈(教義)がようやく確定しました。それは小さな針の穴に通した糸のように、精緻なものです。もともとこの穴は、列車が通るトンネルぐらいの大きさがあったのです。しかし長い議論の中でこの穴が少しずつ狭くなり、数百年がかりで針の穴サイズにまで小さくなってしまいました。

 キリスト教徒は、「針の穴に糸が通った状態」を正解だと知った上で聖書を読んでいます。しかしそうした正解を知らないまま、何の先入観もなしにただ聖書を読んでも、いきなり針の穴に糸を通すことはできません。キリスト教史の初期に、多くの人たちが何百年もかけて、文字通り命がけの議論を繰り返してたどり着いたのが、現在の正統派の教義です。聖書を読んだだけで、その結論にたどり着けるはずがありません。

 これが、聖書を読んでもキリスト教がわからないと考える理由です。

 キリスト教について知りたいわけではなく、ただ聖書に何が書いてあるかを知りたい人もいると思います。そういう人は、針穴を外した読み方をしても構いません。聖書はキリスト教の聖典であると同時に、古典的な文学作品でもあります。ギリシャ神話やシェイクスピアを読むのと同じように、読み物として聖書を楽しんでも構わないのです。しかし「キリスト教について知りたい」という動機で聖書を読むなら、「針の穴に糸が通った状態」を頭の片隅に置いて聖書を読むべきだと思います。

 キリスト教の基本的な教義(針の穴に糸が通った状態)については、古い時代から「信条」という簡潔な形式の信仰告白文にまとめられてきました。信条にはさまざまな種類がありますが、カトリック教会やプロテスタント教会で用いられている、最も簡潔な信条が「使徒信条」です。

 原文はラテン語ですが、以下に現在プロテスタント教会で用いられている訳文を紹介します。(少し古めかしい文語文です。)

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊(せいれい)によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、
生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。 
アーメン

 キリスト教の礼拝ではこうした信条を、礼拝の冒頭近くで信者全員が読み上げます。礼拝では毎週異なった聖書箇所を読みますが、信条は毎週同じ式文を欠かさず読むことになります。

 キリスト教について学びたい人は、聖書だけでなく、信条も読むべきでしょう。「使徒信条」の他にも、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニカイア信条)」「カルケドン信条」「アタナシオス信条」などは特に重要です。こうした信条が、聖書ほどには教会外の人たちに知られていないのは残念です。

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