聖書は神の言葉ではない

聖書は神の言葉ではない

服部 弘一郎

聖書は歴史か、それとも作り話か

旧約聖書の「創世記」に書かれた天地創造物語は史実ではない。

それは聖書を素直に文字通り読めば、誰にでもわかることだ。「創世記」の1章と2章を読み比べてみればいい。そこには神による創造のプロセスを記した2系統の物語が存在し、互いに決して相容れることのない食い違いが生じているのだ。

2つの物語とも、神が段階的に世界を創造た点は同じだ。だが創造の順序が異なっている。1章では創造の最後の六日目に、人間が男女同時に作られ、神は七日目に安息する。2章はそれとは別の物語で、神は何もない地上にまず土から作った人間の男を置く。植物や動物をその周囲において、最後に男のあばら骨から人間の女を作った。創造の最初に男が作られ、創造の最後に女が作られたのだ。

このような食い違いからは、「創世記」を書いた人物(聖書記者)が少なくとも2種類以上の資料をもとに、天地創造の部分を書いたことがわかる。だが旧約聖書を書いた人は矛盾する資料を前にして、食い違いを取りつくろう調整作業をしなかった。矛盾をそれとわかる状態のまま、あえて残しておいた。聖書記者は、なぜ資料相互の矛盾を調整しなかったのだろうか?

これは聖書の他の文書にも似たような例があるので、「聖書とはそういうものである」と解釈するしかない。聖書記者は資料同士の整合性より、もとになったなった資料の生き生きとした記述を優先しのだろう。天地創造に関する2系統の物語は、確かに大きな矛盾がある。でもそれをあまり気にせず読めてしまうのは、2つの物語が共有している価値観やコンセプトが似かよっているからだ。

それは「世界は神によって作られ、人間も神に作られた」というもの。これが2つの物語に共通する要素で、ここに矛盾や食い違いはまったくない。

聖書の多くの部分は、資料が巧みに配置されていて複数資料の痕跡が見えなくなっている。日本語訳された聖書は文体なども揃っているので、それが余計に見えにくいはずだ。そんな中で天地創造に関する物語は、読者に対して複数資料の存在が可視化されている数少ない部分になっている。

こうした箇所を通して「聖書は書き手が複数の資料を取捨選択しながらまとめた」と知ると、聖書の読み方はだいぶ違ってくる。

王国滅亡によって聖書は神の言葉になった

旧約聖書の大半は、古代イスラエル王朝の公式文書として作られたようだ。内容は王朝の正当性や来歴を記した歴史書、各王の事績をまとめた年代記、法律、儀礼や儀式の手順書、儀式や催しに使用する歌集、王朝にまつわる文学作品などさまざま。

こうした「国家事業としての文書作成」は、古代社会ではあちこちの国で行われていた。古代オリエントの国々(バビロニアやエジプトやペルシャなど)では、どこも王宮の書記官たちがこうした文書をせっせと作って書庫に保管していたのだ。だがそうした文書は、現在断片的にしか残っていない。どの文書も、国が滅びれば散逸してしまうのだ。

旧約聖書に残された多くの文書を作成した古代イスラエル王国も、紀元前6世紀に新バビロニアに滅ぼされて消滅してしまう。しかし旧約聖書は残った。国を失ったユダヤ人(古代イスラエル民族の最後の生き残り)たちが信仰によって結束し、王朝時代に作られたさまざまな文書を神の啓示を得た聖典として後世に残そうとしたからだ。

王朝時代に作成された文書は「人間の作った文書」から、人間に啓示された「神の言葉」になった。それは単なる古い文書ではなく、ユダヤ人たちにとって「信仰の書」になった。旧約聖書はそうやって長い時代伝え続けられ、紀元2世紀頃には新約聖書がそれに加わってキリスト教徒たちの「信仰の書」になった。

古代オリエント世界の王国が滅びたとき、その王朝が作成した文書類のほとんどは消え去った。だが古代イスラエル王朝の残した文書類は、多くが「聖書」として後世に伝えられることになった。これは人類の長い歴史の中でも、奇跡的な出来事だったと思う。

信仰の書として伝えられてきた聖書

聖書には「書いた人」と「伝えた人」がいる。聖書を書いた人たちは、それを人間的な営みの中で、それぞれの必要性に応じて各文書を書いた。それはほとんどが宗教的な理由ではなく、王朝の正統性を主張したいとか、法律の整備とか、儀式や典礼の資料とか、それぞれ実用的な理由から必要に応じて書かれている。それは「神の言葉」ではなく、あくまでも「人間の言葉」だった。

しかしイスラエル王朝滅亡で、その実用性や必要性は失われる。ここで文書は散逸してもおかしくなかったのだ。だが王朝の諸文書を引き継いだ人々(おそらくは元神官たち)は、残された文書に宗教的な意味と役割を与えてユダヤ人たちの精神的な結束を図った。聖書はこうした人たちによって、神の言葉として未来に伝えられた。

だが聖書はもともと人間の言葉だ。聖書にどんなことが書かれているのかを知るには、「神の啓示の書」という後付けの役割を、一度聖書から引っぺがす必要がある。そうすることで、聖書に書かれていることがどんな意味を持つのか、より正確に理解することができるようになるのだ。

しかし一部のクリスチャンは、聖書に張られた「神の啓示」というレッテルを剥がすことに頑なに抵抗するのだ。「神の啓示」というフィルターを通して理解していた聖書が、丸裸にされることを拒もうとする。気持ちはわかるが、それは「聖書そのもの」から目を背けて逃げようとしているんじゃないのかな……と、クリスチャンではない僕は思ってしまうのだ。

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服部 弘一郎
映画批評家。1966年東京生まれ。著書に「銀幕の中のキリスト教」(キリスト新聞社)。編著に「シネマの宗教美学」(フィルムアート社)がある。現在は名古屋市在住。 http://eigakawaraban.wordpress.com