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忘れられた日本語「漢文」

「仮名文字論」というものがある。これは日本語の伝統的な表記である漢字仮名まじり文をやめて、平仮名や片仮名、場合によってはローマ字にするべきだという主張だ。明治以降の日本では「漢字の存在が日本人の読み書き学習の障害になっている」と考える人が少なからずいて、同様の主張が何度も浮かび上がっては消えていくことを繰り返している。

バカげた話だと笑うことはできない。常用漢字や人名漢字などは、仮名文字論と同根の漢字使用制限から生まれたものだし、今でも「漢文は義務教育から除外しろ」という人が大勢いる。同じ事だ。

その漢文だが、じつはかなり多くの人が、漢文を中国語だと思っている。しかし漢文は日本語だ。だから漢文は中学や高校の「国語(古文)」の授業で習う。

漢文の授業でテキストを読むとき、中国語の発音で読む人はいない。日本語として訓読する。杜甫の漢詩「春望」の冒頭は「國破山河在」だが、これは「国破れて山河あり」と読み下す。これを「漢文訓読体」と呼ぶが、これは立派な日本語。その証拠に「国破れて山河あり」と言っても、中国人にはまったく意味が通じないだろう。だが漢文を学ばなくなれば、この「漢文訓読体」は日本から消えてしまうに違いない。

現在でも俳句や短歌の愛好者は多いが、昔の日本には自作の漢詩を作る人たちが大勢いた。例えば大河ドラマ「青天を衝け」のタイトルは、渋沢栄一が青年時代に自作した漢詩の一節に基づいている。平安時代から明治初期まで、日本の公式文書はすべて漢文で書かれていた。かつての日本人は、日本語として漢文を読み、日本語を漢文で書くことができたのだ。今では漢文を書く文化は廃れた。だが日本人として、せめて漢文を読めるようにはしておきたい。

小説家の志賀直哉は「日本語をやめてフランス語にしてはどうか」と書いて物議を醸したことがある。どの程度真面目だったのかは知らないが、馬鹿げた意見であることは間違いない。だが小説家の百田尚樹は漢文廃止論者で、その主張は志賀の日本語廃止論と似たり寄ったりの馬鹿げたものだ。

考えてもみるがいい。日本の自称保守派は明治憲法や教育勅語が大好きだが、あれは漢文訓読体で書かれている。漢文がわからなければ読みこなすことはできないではないか。

いや、今でも既に読みこなせていないのだ。

その証拠のひとつが、明治神宮の「教育勅語の口語訳文」だろう。漢文訓読体の原文と口語訳文を比べると、内容がだいぶ修正されていることがわかる。だが漢文訓読体の原文が読みこなせないものだから、ほとんどの人はこの修正に気付かない。

自称保守派の中には、こうして修正された「教育勅語の口語訳文」や「教育勅語の十二の徳目」などを持ちだして、「教育勅語に書かれていることは今でも通用する」などと言う人がいる。だがこれは、教育勅語を原文で読んでいない証拠でしかない。自分でも読めない教育勅語について、良いも悪いも判断できなかろうに……。

自ら保守派を名乗るくせに、漢文訓読体が読めない日本人の恥ずかしさ。日本の漢文教育が疎かになっていることで、日本人の多くは明治時代に子供向けに書かれた「教育勅語」すら読めなくなってしまった。これを日本語の喪失と言わずして、何と表現するべきだろう。

現在は「受験に関係ない」ということで漢文教育が敬遠されがちだが、国語はコミュニケーションの基礎。日本の国語教育の基本として、小中高での漢文教育も徹底してもらいたいと思う。

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