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REVIEW 『激怒 RAGEHOLIC』

『激怒』のリアリティ
文:山内直志 

 高橋ヨシキの初長編映画『激怒』が大好評上映中だ。舞台は日本のどこにでもあるような町・富士見町。一度怒りに火がつくと見境なしに暴力を振るう刑事・深間(プロデューサーも兼ねる川瀬陽太が演じる)が行き過ぎた行動の結果、アメリカで3年間の投薬治療を受ける。帰国した深間は町の様子が一変しているのに驚く。面倒を見ていた不良たちは姿を消し、町内会が組織した自警団が「安全・安心」のスローガンのもと、暴力的なリンチを繰り広げていたのだ。町民の行きすぎた治安維持に深間は押さえ込んでいた怒りを蘇らせる。

『激怒』は刑事ものというジャンル映画として制作されたが、そこには現代日本の不穏な空気が充満している。こうした見方に対して、監督の高橋は「ジャンル映画には社会批評性が孕まれている」とことあるごとに発言している。『激怒』では町の治安を守る警察と町民が結託しリンチが横行している。不良たちは彼らに追い込まれ廃墟のような団地に身を隠している。町中に監視の目が張り巡らされ、タバコも吸うこともできない。「みんなが見てるよ」とソフトな物言いでありつつ、その実威圧的なメッセージを孕んだポスターが貼り出されている。そこは刑事として深間が守ってきた町の姿ではなかった。


安心・安全の町


 映画を観た人の耳に残る「安心・安全、富士見町」という町内放送の声が見事だ。安全・安心というフレーズは、事実として我々の生きる社会に満ち溢れている。コロナ予防のためにも使われていた、行政による殺し文句だ。

 この言葉が日本に定着したのは20年近く前のことになる。酒鬼薔薇聖斗事件をはじめとする猟奇事件が続発し、子どもがその犠牲になった。そこで子どもを犯罪者から守るため、地元住民たちがボランティア活動として、子どもの見守りを開始した。そこで使われたキャッチフレーズが「安全・安心」だった。

 ところが『激怒』では子どもたちの姿はない。「犯罪ゼロの町」において描かれるのは、子どもが寝ている夜の町の物語になっている。夜の町での「安全・安心」とはもっともらしい題目だが、夜にこそ自由を見出す人間は間違いなく存在する。それが標的にされる。劇中、町会長の桃山が警察署にねじ込む理由は、夜に騒ぐ若者たちへのクレームだった。そこで証拠として出される写真には若者たちが群れている姿が記録されている。署長室の観葉植物を見て「白カビ病だ。ちゃんと世話をしないからだ」と嫌味を言う桃山。彼にとっては若者であっても面倒をみないといけない「子ども」なのだ。

 この桃山のシーンは、町の不良たちの面倒を見ている深間と対になっている。深間は麻薬をきめている不良をたしなめるが現行犯として逮捕はしない。またポールダンサーの杏奈を実の娘のように思っている。この深間の距離の取り方は、彼がアウトロー刑事であると共に、不良が過度の逸脱行為に走ることなく夜の富士見町に暮らせるようにする采配でもある。

 実際問題として、非行少年の高齢化が臨床心理士の浜井浩一によって指摘されている。浜井に寄れば、かつては共同体によって非行少年は「大人」にさせられていた。地域の大人が20歳を過ぎても非行に走る者の面倒を見て職につかせていた。ところが構造改革や公共事業の減少により、その機会が大幅に減ってしまったという。オープニングで自警団が赤信号待ちをしている『激怒』の世界においては、彼ら不良のための居場所はすでに保証されたものではなかった。信号が青に変わったとき、彼らは狩られる運命にある。

 富士見町の住民が過剰に不良を恐れるのは、彼らが町の悪のヒエラルキーのトップになってしまったからだ。以前、富士見町に暴力団が存在し、深間が怒りに任せて壊滅させてしまった(この功績は声高に描かれるのではなく、警察署長室に飾られた新聞記事によってさりげなく描かれる)。暴力団が存在したら、それは不良たちの受け皿になってしまっただろうし、深間はその意味でも彼らを守った。清濁合わせ持って、深間は富士見町を守っていたのだ。


ゼロ・トレランスの町


『激怒』のシナリオを書くにあたって、高橋は日本全国の防犯ポスターなど徹底的に調べ上げたという。そして映画のメッセージをより強いものにするためのリサーチを心がけた。そんな作業中におそらく高橋が参考にしたであろう本がある。犯罪学者のジョック・ヤングによる『排除型社会』(洛北出版)だ。そこでヤングは加熱するアメリカの地域社会の安全をめぐる基本概念として「ゼロ・トレランス」というものがあると論じる。

「ゼロ。トレランス」は「市民道徳に反する行為を絶対に許さず、厳しい取り締まりによって街中から逸脱者や無秩序を排除すること」であり、6つのキーワードによって成り立つとする。その6つとは以下の通り。

1 犯罪・逸脱への寛容の低下

2 目的達成に懲罰を使い、過激な手段にも出る

3 市民道徳の水準を知られうる限りの過去に戻す

4 市民道徳に反する行為と犯罪は連続しており、規則を破ることは重大な犯罪につながるとみなされる。

5 市民道徳に反する行為を監視しなければ、犯罪は増加する

6 これらの考えを広めるためにあるテキストが使われる。1982年に発表された「割れ窓」理論である

 6の「割れ窓理論」とは、空き家の割れ窓を放置することで共同体の秩序が乱れ始めるというもので、これを改善した結果、秩序が復活したという「神話」がまことしやかに語られている。劇中で桃山が語る白カビ病の話は「割れ窓理論」をわかりやすく脚色したものだ。

 ヤングによる「ゼロ・トレランス」は『激怒』での暴走する市民自警団の行動原理になっている。彼らは不良のみならず、精神的に病んだ者も排除しようとする。オープニングに姿を見せる自警団は引きこもりの男を無理やり外へ引きずり出そうとする。時刻は夕方。夜に入る前に異端とみなした者を処理しようとしている。

 深間がアメリカから帰国すると、自警団の勢いは増している。揃いのキャップとベストを身につけ、ガソリンを入れた水筒を手に持ち警察署前に集合している。かつては喫煙が可能だった飲み屋の主人も参加している。彼らの姿は映画前半の引きこもり男騒動のときとうって変わって嬉々としている。彼らはこれから夜の世界の秩序を乱す者たちを狩り出すのだ。社会学者の芹沢一也はこうした行きすぎた自警活動を「娯楽」だと指摘する。ゼロ・トレランスに入った不寛容社会において、ボランティアで警察行為の代わりに治安を守る行動は、見えない不審者に怯えながら、地域の一体化を促し保守的な隣組ノスタルジーを加速させ、心地よい一体感を生むという。芹沢は加速する自警活動を「ホラーハウス社会」と名付けた。『激怒』の富士見町はまさしくそれだ。刑事ものというジャンルで作られた本作にホラーの要素が仕込まれている。


老いる町


『激怒』が秘めるホラー要素は自警団による残酷なリンチで可視化される。自警団は夜に生きる若者たちに容赦なく暴力を振るい、警察はそれを黙認する。自警団の多くは中年男性で、普段はどんな暮らしをしているのかは描かれない。恐らくは昼は真っ当な暮らしをして、夜になると娯楽のための自警ボランティアに勤しんでいるのだろう。

『激怒』の自警団が若者たちや大人になりきれていない不良たちを狙うのは、舞台となる富士見町が認知症的な不安に追い込まれているからだ。認知症の症例として誰かにものを取られる、知らない者が部屋に入り込むという幻惑が報告されている。『激怒』においても、治安に対する不安が描かれる。極めて保守的な考えをもつ町内会長の桃山に率いられた富士見町の町民たちは夜の異端者と共存する考えを持っていない。グロテスクな宴会に深間が招かれるシーンでそれは顕著になる。「この町もだいぶ住みやすくなった」と笑う桃山とそれに付き従う警察署長の吉原は、準刑事に格下げされた深間が押さえ込んでいた怒りの感情を思い出させるきっかけとなる。

『激怒』が老いに対して目配せをしているのは、深間が老母と過ごすエピソードを入れたことにも現れる。アウトローな仕事をしていたとき、病院に入れていた母親を深間が引き取るシーンは、深間もまた若くない存在であることが描かれる。

 宴会の場から傷つけられた杏奈を救い出した深間は、この町から出るように説得する。それに対して「どこへ行ったって同じだよ」と答える杏奈。深間がアメリカから帰国して出る「現在」のテロップと相まって、『激怒』が描く世界観の怖さ、絶望感が集約されたシーンだ。日本を覆う閉塞感が富士見町という架空の町に凝縮されている。老いた国に生きているのだという戦慄が『激怒』にはある。ジャンル映画ゆえに、老いを綺麗事に描かない。ラストのスペクタクルは老いた町の終わりを告げるものなのか、怒りを解放した深間が見た幻想なのかは、観客に委ねられる。

 ジャンル映画の持つ社会批評性を『激怒』は最大限に発揮した。それは綺麗事と共感を強いる多くの日本映画では稀なケースとなっている。ダークなエンタテインメントとして、このインディーズ映画を消費することはできない。インディーズだからこそ成立した強いメッセージを我々は真摯に受け止めるべきだ。


参考文献

『激怒』パンフレット

『排除型社会』(洛北出版)

『ホラーハウス社会 法を犯した「少年」と「異常者」たち』(講談社)


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