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製作費はネトフリ史上最高額! ルッソ兄弟のスパイ・アクション大作など【次に観るなら、この映画】7月23日編

 毎週土曜日にオススメの新作映画をレビューする【次に観るなら、この映画】。今週は3本ご紹介します。

①「アベンジャーズ エンドゲーム」のアンソニー&ジョー・ルッソ兄弟がメガホンをとった「グレイマン」(7月22日からNetflixで配信中、7月15日から一部劇場で公開中)

②世界初の女性映画監督アリス・ギイの生涯に迫るドキュメンタリー「映画はアリスから始まった」(7月22日から映画館で公開中)

③俳優ロバート・ダウニー・Jr.の父ロバート・ダウニーが1969年に手がけた監督作「パトニー・スウォープ」(7月22日から映画館で公開中)

 劇場へ足を運ぶ際は、体調管理・感染予防を万全にしたうえでご鑑賞ください!


「グレイマン」(7月22日からNetflixで配信中、7月15日から一部劇場で公開中)

◇シリーズ化決定か。ルッソ兄弟が手掛けるネトフリ史上最高額のスパイ・アクション大作(文:本田敬)

 ネットフリックス史上最高、2億ドル(約276億円)の製作費がかけられたアクション超大作(ちなみに映画史上最高額は「パイレーツ・オブ・カリビアン 生命(いのち)の泉」の3億8000万ドル)。グレイマン=目立たない男、と呼ばれる暗殺者を主人公にしたマーク・グリーニー原作の人気シリーズ小説を映像化した第一弾。

 シエラ・シックスのコードネームを持つCIA工作員のジェントリー(ライアン・ゴズリング)。服役中の刑務所で、CIA監理官フィッツロイ(ビリー・ボブ・ソーントン)にスカウトされた過去を持ち、今では完璧な仕事ぶりから「グレイマン」と恐れられていた。とある指令でCIAの重要機密を託されたジェントリーは、漏洩阻止のために雇われたロイド(クリス・エバンス)と殺し屋集団から追われる身に。ジェントリーは工作員ミランダ(アナ・デ・アルマス)の協力を得て、戦いに身を投じる。

 著者マーク・グリーニーは2009年に本作の原作「グレイマン 暗殺者」でデビュー、現在シリーズは10作を超える。最新刊「シエラ・シックス」(翻訳未刊行)はジェントリーが暗殺者になるまでの前日譚となっており、この映画とも重なる要素は多い。本作の魅力はジェントリーという主人公そのもの。刺され撃たれれば血を流し瀕死の重傷も負う。仲間は裏切らず、世話になった恩義は忘れない。古臭い人物像は逆に新鮮で、生身の戦いは痛みを伴う読後感が味わえる。

 近年は配信系で活躍する監督のルッソ兄弟、前作トム・ホランド主演のApple作品「チェリー」は、PTSDによる薬漬けカップルの沈鬱な堕落劇だったが、「グレイマン」では一転「ジェイソン・ボーン」風の、クロアチアやパリ、ウィーンなど欧州各国で展開する総力戦が途切れなく続く大活劇。閑静な住宅街の一角を壊滅させ、路面電車で街を破壊するプラハでの攻防には息を呑む。

 そんな中でもユーモアは随所に。爪楊枝をくわえたゴズリングとチョビひげサイコ男のエバンスが「シャイニング」的な巨大迷路で戦うなどの小ネタが挟まる。またミランダ役のアルマスはブラック・ウィドー並みのアクションを披露。過去にゴズリング、エバンスそれぞれと共演し相性は抜群、二人を相手にブレず媚びない工作員を好演。さらに注目は最強殺し屋役で登場するインド出身の歌手で俳優のダヌーシュ。キレキレの格闘術と眼力でスター誕生を予感させる。

 ネットフリックスはシリーズ化を目論んでいるが、次も2億ドル、或いはそれ以上の製作費を割けるかは現状では不確定だ。少々無理筋な話でもスケール感で押し切るルッソ兄弟、「1」を上回る規模の続編と、次はオリジナルのテーマ曲にも期待したい。


「映画はアリスから始まった」(7月22日から映画館で公開中)

◇世界初の物語映画は女性監督が生み出したという黎明期の功績が明らかに(文:和田隆)

 フランスの映画発明者で“映画の父”と呼ばれるリュミエール兄弟(兄オーギュスト、弟ルイ)が手掛けた世界最初の実写映画「工場の出口」「列車の到着」(1895)を筆者が大学生の時に初めて見た時の感動は今も覚えている。それから映画の黎明期の歴史についても勉強してきたので、関連書籍の中などでその名前を目にしていたかもしれないが、アリス・ギイという名前に覚えはなかった。

(C)2018 Be Natural LLC All Rights Reserved

 アリスはパリ郊外で生まれ、裕福な家庭で育つが、後に事業に失敗した父と兄が亡くなったため、パリの写真機材会社ゴーモン社に就職。レオン・ゴーモン社長の秘書となり、1895年、リュミエール兄弟がシネマトグラフで初めて映画を上映した場所にいたという。そして社長の許可を得て、翌1896年、第一回監督作品「キャベツ畑の妖精」を完成させ、世界初の女性映画監督となる。リュミエール兄弟の「工場の出口」「列車の到着」は、工員たちが工場から出てくる様子や、列車が駅に到着する様子を撮影した記録映画だが、アリスは「キャベツ畑の妖精」で、世界で最初に物語映画を監督した。

 それから多くの作品を映画黎明期にてがけ、1907年に渡米。映画製作会社を発足し、クローズアップ、特殊効果、カラー映画、音の同期といった現在の標準的な映画製作技法を数多く生み出して、ハリウッドの映画製作システムの原型を作ったと言われ、1000本近くの作品をつくり、映画史に大きな足跡を残した。

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 だが、リュミエール兄弟や映画の魔術師と言われたジョルジュ・メリエスと並ぶ映画黎明期のパイオニアでありながら、これまで映画史から忘れ去られてきたのはなぜなのか。インタビューに答える現在の著名な俳優や監督たちも大半が口々にアリスについて「知らなかった」と言う。ジョディ・フォスターのナレーションで、生前のアリス自身や彼女の親族、さらにベン・キングズレー、アニエス・バルダ、マーティン・スコセッシらへのインタビュー、フッテージ映像などを通し、その功績と人生をひも解いていくとともに、忘れ去られてきた理由が明かされ、映画史的に非常に貴重なドキュメンタリーとなっている。

 「キャベツ畑の妖精」をはじめ、アリスが手掛けた作品のフッテージ映像を見ると、黎明期にこのような作品が作られていたことに驚く。映画の“物語る力”の可能性を最初に見出したのが女性だったということ、そしてアリスに続いて当時多くの女性監督がいたことは、改めて映画史に刻み込まれるべきである。アリスが自ら演じているシーンや監督している姿は感動的だ。その時代や社会的背景も影響していると思われるが、さらに緻密なリサーチを続ければ、彼女が忘れ去られた理由がより明確になることだろう。


「パトニー・スウォープ」(7月22日から映画館で公開中)

◇差別と格差、大企業と政治、怨恨と暴力。半世紀を経て先見性が際立つ異色の風刺劇(文:高森郁哉)

 公民権運動とカウンターカルチャーが高まる一方、政治的指導者の暗殺が相次いだ1960年代を締めくくる1969年の米国で公開された「パトニー・スウォープ」。俳優ロバート・ダウニー・Jr.の父であり昨年死去したロバート・ダウニー監督が半世紀前に手がけたこの映画が、近年の本国における再評価を経て、歴史的大事件が起きた2022年7月の日本で劇場公開されることに、悲しくも数奇な巡り合わせを思わずにはいられない。

 ダウニー監督が痛烈な風刺を込めて描くのは、ニューヨークの大手広告会社を舞台に、白人と黒人の立場が逆転する不条理劇だ。創業者が急死した直後の役員たちによる互選により、最も見込み薄と思われた唯一の黒人パトニー・スウォープが新社長に選ばれる。スウォープは役員も従業員もほぼ全員黒人に入れ替える。唯一の白人役員は他よりも報酬が少なく、配達係の白人は使用するエレベーターで差別される。

 スウォープの新体制で作られるのは、たとえば黒人男性と白人女性のカップルが登場するニキビ治療薬や、半裸の客室乗務員らが幸運な男性客と戯れる航空会社のCM。(当時の)社会通念に挑戦する過激な広告は大衆受けして、大金を前払いする企業が殺到し、その影響力を利用したい大統領(とファーストレディを小人症の俳優が演じている)が接触してくる……。

 1969年は「明日に向って撃て!」「真夜中のカーボーイ」「イージーライダー」が大ヒットするなどアメリカン・ニューシネマの全盛期であり、反体制的な要素はハリウッドの大手スタジオ作品にも増えていたが、(白人と黒人の立場を逆転させる形で)人種差別を劇映画の中で描いたという点で、「パトニー・スウォープ」は先駆的な意欲作だった。影響を受けた映画監督の一人であるポール・トーマス・アンダーソンは、「ブギーナイツ」と「マグノリア」でダウニーを俳優として起用し、最新作「リコリス・ピザ」では故ダウニーに献辞を捧げている。2016年に米国議会図書館から後世に残すべき作品として選出されたのも、2010年代のブラック・ライヴズ・マター運動の高まりと無関係ではないだろう。

 本作を観て考えさせられるのは、時代の通念や常識にとらわれず、タブーとされるものに果敢に挑戦する表現が、時として予言的な性格を帯びるということだ。“アラブ”とあだ名される異教徒の社員が分け前をもらえないことを恨んで破壊的な行為に訴える場面は、2001年9月11日に世界貿易センタービルを炎上・崩落させた同時多発テロを想起させる。そして、差別的な扱いを繰り返された配達係が、拳銃でスウォープの命を狙う場面。恨みを買った指導者が銃で殺されるなど他国の出来事であり、平和で安全な21世紀の日本では起こるはずがない――というわずか一カ月前までの“常識”が、今や脆(もろ)くも崩れてしまったことを痛感せざるを得ない。その先見性に驚くべきなのか、それとも“人間と暴力”の変わらなさを嘆くべきなのか。

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