見出し画像

なんで文を書いているのか?

最近推しカプの新作書けたーやったー!


それがこちらですわ。3部作の最後だから気をつけろ。

pixivはこれさ。


「なーんで文を書きはじめたんだろうな」とか
「なんで私書いているんだろう?」なんて思いはじめたので、こないだ小さいノートに書いたようなこともnoteについでに書くこととする。


先日、3年ぶりに、頓挫していた二次創作の最後の話の書き終えた。これ、お気に入りだったのになあなんて思いながらうだうだとしていたのだ。

幽霊の日にちなんで推しカプの一方が骨を鳴らすしゃれこうべになった話。幽霊の日の7月26日に1作目2作目を書いて、「今日幽霊の日だって!」というTwitterを見て毎年思い出して「書けばよかったなぁ」なんて思う日々。

「この日に揃えて上げたい!」なんてこだわりを持ち続けていたせいで結局、2021年を最後に更新アップしてしまった。そもそも1作目すら2020年にあげて、一年越しに2作目の続きをup。この好みの話を書いた作者本人だから、その後の展開をなんとなく頭の中にあってなんとか発狂せずに済んだが、この私好みの話が、一年ないし三年も完結しないまま待たされたら私は発狂するし、作者を脅してでも書けと詰め寄ったかもしれない。

作者でよかった〜!!!!

大袈裟でなく、自分の書いた話や絵を気に入りすぎて愛でて愛でて愛でまくっている。自分で書いたから自分好みなのは当たり前なのだが、中にはそうでない場合もあるだろう。好きもいきすぎてはよくないと思いつつも好きなものは好きなんだからしょうがない。自分の文が好きすぎるツイートで個人的プチバズしたしね。

そもそもこの話に限らず、推しカプ小説を書いたのだって一年半ぶりだった。書き上がらずに挫折した原稿を書いていて、日の目を浴びることのない話を書いていたので、なんとなく「あー書いてないなぁ」という気持ちだったので、書き上げられて嬉しい。フォロワーさんにたくさん読んでくれいー!したので目を通していただけたし、感想もいただけたんじゃなかろうか。

「無人島で誰にも読まれなくても創作するか?」

私の場合、これはイエスだ。「あー書いてないな」とか一年半近く人の前にお出ししなくても大丈夫だったが、これはそう。そもそも推しカプ小説を書き始めたのも人との交流のため書いたが、私の場合きっかけにすぎず、まず私という読者が楽しめるかもしれないから、文を書いている。

他者との交流は1番の動機ではないのだ。そりゃ読まれて感想言ってもらえると嬉しいけど。中には「読んで感想言って。大丈夫かどうか教えて」だのいう輩がいるけどバッキャローそんなもん反応なければ大丈夫じゃねかったってことだよ察せよ馬鹿とか思ってる。口が悪いが突然こういうことを言ってた輩を思い出したもんでよ。

そもそも私が書きはじめた感情って、怒りだった。理不尽な怒り。「私ならこう書く」と。

自分より下手な文がちやほやされていて我慢がならなかったのだ。そも、創作していない段階にもかかわらず、だ。「おいおいそんなんで感想もらえんのかよ」みたいな理不尽な嫉妬でそんなことを思って書きはじめたように思う。我慢がならなくなって「貸せ!小説ってのはこう書く」という気持ちで、書きはじめた。くだんのひとに当て擦りのような真似はしていないが、好みの文でなかっただけで私は自分の物語を書き始めたので動機といえばあまり褒められたもんではない。

「貸せ!(私好みの文学の美学とは)こう書く」と思って常に書いている。結果的に、書いてよかったなぁ。

この「下手な文、好みではない文」を気に食わないというのはなにも二次創作作家に起こることではなく、商業作家にも起こる。
「作る話は好みなのにラストが気に食わない。途中までよかったのに台無しレベルだ。最後を読者に投げてんじゃねぇぞ、なにが感情の濁流だよ、起こさせろよ私に。濁流ってやつをよ。物語には救いがなけりゃならんのだ。救いを求めるべきだ」とあーだこーだと心中でいちゃもんをつけたりする。

いまだに、「あの作家の書くものには美しさがない。片鱗だけ見せといて開示しない。迷いでもあるのか。チープで使い古された表現だと?恐れでもなしているのか。まったく腹立たしいことだ」なんてクソミソ思いながら読んでいる作家がいたりする。新作読んでは「あーあーまたフレンチのフルコースのメインを残飯にしたねこいつぁ」と思っている。
最後の仕上げを放棄したかのように見えて、よくない。

「なにを思って書いたの?」とか聞かれてしまうような、下手で言い訳するくせに曖昧なことしか言えぬような作家性が気に食わぬのだろう。自分の作品だろ、心血注いで書けよなんて思っている。もちろん毎回そんなもの書いたら命がいくつあっても足りやしないので、落書きのような「書いた理由?息抜き!」というようなものがあってもいいが、万事が万事息抜きと言い訳しているようでいてはいかんと思う。

だが自分にはこの場合甘くなる。書けぬときには「注ぐ血が足りぬ」と虚血めいたこと言ってぐったりしている。そんなときは無理せず休む。やっつけで駄作生み出して嫌悪するよかマシだ。仕事じゃないんだから。

自分がうだうだ言っている間に、コンスタントに文を書き発表している人達がいる。出来はさておき、私はワンドロぐらいの量で細かに文を作り、鍛えなければならないともわかっている、わかっているのだが悩むほど冗長になり、展開はチープ、ここぞというときに決まらぬ文ばかり量産して結果独りよがりな文になる。

これが1番耐え難い。独りよがりな文を書きたくない。

読者にそう思わせたくないはもちろんだが、それ以上に「独りよがりな文だな」と自分自身が思いたくはなかった。自分を失望させる文よりも、自分を励まし、鼓舞させ、奮い立たせる文が書きたいのだ。また書きたいと思えるようなものを……。


ここまで書いといてなんだけど、あれだな。そういうのにとらわれずに
「うるせヶ!書く理由⁉︎そんなん私が見たいからじゃ!なんも考えてねぇ!ごちゃごちゃしたもんはなんも!うるせぇ!」と思いながら書きたいかもなー。

ごちゃごちゃ言って筆が止まるならそんなプライドとかこだわり、いらねぇや!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?