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ご自愛と子育てのバランス

(2021.11.9に書いた記事。今更ながら自分の記録としてアップ。)


尊敬する女性に、第二子が誕生した。

生まれたての赤ちゃんの写真が添えられた出産報告を受けた時、
母子ともに無事であった安堵と、「可愛い。尊い。」の気持ちと共に、
胸を締め付けられるような母親としての自分の不甲斐なさがぐぐぐっと胸に迫ってきて、涙が止まらなくなった。

その女性は子どものことを専門に勉強し、心から子ども(我が子のみならず子どもという存在そのもの)を愛し、世の中の子どもたちのための仕事を熱心に行っている人。

ただただ子どもという存在を愛でている人間らしい部分と、子どもという存在を学問的に勉強し俯瞰的にもみているロジカルな部分が共存したその女性は、私にとって憧れの存在だ。

彼女の妊娠を知り、とても嬉しかった。

こんなに子どもを愛してくれる人のもとに生まれてくる子どもは幸せだなと心から思ったから。

“親ガチャ”って言葉はあまり好きにはなれないけれど、それでいえば親にしたいランキング最高位付近にいる人だよなと、彼女に関しては本当に思う。

対して、私は完全に外れだよな~と、何だか深いため息が出てきてしまった。


冒頭の私の涙。
これは私の母親としての自信のなさからきていることは明白だ。

最近私をじわじわ侵食しているもやっとした感情。「ご自愛」の程度がよくわからなくなっているのだ。

“母親が満たされていないと子どもは幸せではない”

最近よく聞く言葉。

ワンオペ、両親達が遠方で協力は得づらい、コロナetc…

孤独な育児で母親が煮詰まるなんてよく聞く話。そうならないように、できるだけ「べき」「ねば」を減らして、手を抜くところはしっかり抜いて、母親自身の余白を大切に、と思って過ごしている。

イヤイヤ期の息子と、立ちかけて目が離せない娘との閉鎖的な空間に耐えられなくなると、遊びはさておいて、子ども達をチャイルドシートに乗せてドライブを始める私。

息子の発語を促すためにたくさん会話をしましょう、トイトレもそろそろもっと積極的に進めてもいいかもねって小児科の先生や療育の先生方、親世代にアドバイスされたりする。
娘についても、つかまり立ちの練習や足裏のマッサージを理学療法士さんに指導されている。

けれど、もうそんなこと全てを放棄して、自分の心を平穏にするため全力投球する時間が、今の私には定期的に必要で。

ドライブスルーのスタバカップを片手に、子どもそっちのけで音楽をかけドライブしたり、YouTubeを見せながら私はスマホに夢中な時間。

その瞬間瞬間、私は少し解放されて息抜きができるけれど、見ないふりをしていた心の奥底からじわじわ湧き出る罪悪感。
これが最近私の心を蝕んでいる。


今日、夕食後のちょっとしたくつろぎタイムに私の傍らで大好きな電車の本を開き、電車をひとつひとつを指さし始めた息子。

「あか!」「きいろ!」「くろ!」「あおい!」「はやい!」「けむり!(蒸気機関車を見て)」と一生懸命に伝えている。私が「赤いね!」「わーかっこいい機関車だ」「橋の上を渡ってるね!」といちいち大袈裟に反応すると、満面の笑みを浮かべ、得意げに語気を強める息子。

その生き生きとした瞳を見てはっとしたのだ。最近の私、息子のこうした発信を話半分で流し聞いてたよね、と。

言葉がまだ不明瞭で会話はなかなか成立しない息子とのやり取りは、正直付き合うのが面倒になることがある。

息子の言葉に反応はしているし、できる限り声もかけている。でも水をこぼしたり物を投げまくっている娘に気を取られたり、興味のあるスマホ内の記事をキッチンの隅でこっそり読みながら口だけ相槌をしたり、夫や友人からのLINEを気にしたり。
そんな感じで過ごすことも多くて、心をしっかり向けて息子と向き合った時間が日々どれだけあっただろうかと。

子どもの発達について知識が薄く、後々こんな関わりが大切だったんだと知って後悔することがある。
専業主婦で毎日子供と長時間過ごしているのに、心ここにあらずな瞬間が多く、しっかり子どもと向き合えていない。

自分のためのご自愛と、子どもたちに向き合う時間。
罪悪感を感じることなく、その微妙なバランスを明日はもっと上手に取りたい。

どちらも中途半端なことが良くないのかもしれないから、明日はスパッと時間を決めて、子どもと向き合う時間は何にも気を取られずに集中して向き合いたい。
そんな時間を一日の中で5分でも10分でも取れたら、心の充実感が変わるかも。

そんなところに着地した今日のお話でした。

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